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4.天上の雨(1)
飛行機の中。
俺はひたすら苛立ちを抑えていた。
なぜ俺はすぐ彼の傍に行けないんだろう。
なぜ彼のもとへ行くのにこんなにも時間がかかるんだろう。
そんな思いでいっぱいで。
そして俺は自分を責めた。
化物の隙をつき、二人で橋を渡る『計画』。
橋を渡りきれば、互いに夢から解放されるのではという『仮説』。
そうすれば、もう二度と同じ夢を見なくなるという『実証』。
『計画』は失敗した。
そして彼を危険にさらした。
俺の焦りが彼を追い詰めた。
もっと彼と話し合っていればこんなことにならなかった。
俺の思いばかりで先走ってしまった。
そう自分を責めながらも。
彼が今どうしているのか心配で仕方がなかった。
飛行機の中では携帯が使えない。
これなら部屋で過ごした二時間の方がまだましだったと思う。
俺はただ、何もできない拷問の様な三時間を過ごした。
空港に着くとすぐ彼に電話をかけた。
「もしもし? 今空港に着いた。今どこにいる?」
『……ぃえ』
泡の様に消えてしまいそうな声。
恐らく、彼は自ら外に出られない。
そんな気がした俺はレンタカーを借りた。
「今から、あんたの家行くから。道教えて」
不慣れな道だ。
観光名所に向かうならまだしも、一般の家。
すぐ着けるとは思わない。
でも、空港で地図も買ったし。
行くしかなかった。
彼から届いたメールに書かれた住所。
それを見て車を走らせる。
途中、人に訊き、道に迷ったりもして。
でも何とか彼の家に辿りつくことができた。
彼の家を見上げる。
不思議な気分だ。
景色や、家そのものの外観が違うのに、なぜか夢の屋敷を思い出す。
ただ、事情は少し違う。
俺はその場から電話をかけた。
「今、着いた。……出られそう?」
『…………』
彼から声が返ってこない。
「……どう?」
もう一度尋ねる。
『……お願、い……。入ってきて……』
……いいの?
いくらなんでもこれ現実なんですけど。
確かめてみると、今彼の親は外出しているということで、彼一人らしい。
鍵は開いているだろうから、そのまま入ってきてくれと言う。
二階の奥の部屋だから、と言って彼はまた黙ってしまった。
俺は一度電話を切ろうか迷ったが、そのままにして中に入った。
扉を開け、すぐ手前にあった階段の手すりに手をかけた。
昼間だが、日が差し込まないせいで、少し薄暗い。
ゆっくり階段を上がる。
一段、一段踏みしめて。
ちょうど二階に辿りついた時、彼のひときわ鋭い呼吸が聞こえた。
「……どうした?」
既に彼の部屋と思われるドアの前だ。
もう携帯を使わなくても聞こえていそうだが、そのまま話した。
『ドア……、ゆっくり開けて……』
「分かった」
俺はまだ電話を切らず、そっとドアを開けた。
彼の部屋はひときわ暗かった。
薄い緑色のカーテンが無造作に閉められていて。
少し散らかった部屋の右側にベッド。
そのベッドの縁にもたれ、彼が座っていた。
足を抱えて、子供みたいに。
その腕の中に顔を埋めて。
彼の名を呼んだ。
すると彼はゆっくり頭を上げて俺を見た。
俺の姿に信じられない、と言わんばかりの表情で。
泣き腫らして、酷い状態だった。
俺は電話を切ると、彼の傍に近寄り、そっとしゃがみこんだ。
すると彼はゆっくり手を伸ばして、俺に抱きついてきた。
湿った彼の体温。
小刻みに揺れる体。
その揺れは段々と強まって。
彼はぽろぽろと泣き出した。
すがりつくように俺の背に腕を絡めて。
しがみついて、ずっと泣き続けて。
しゃくり上げて声を上げて。
汗で湿る体の芯が冷たい。
俺が来るまでずっと、この状態だったんだろうか……?
眠れなくなって、恐怖に耐えて、ずっと俺を待って。
自然と彼の身体を抱きしめる手に力がこもった。
俺はその頭をずっと撫で続けた。
親が帰ってくるかもしれない、ということで俺たちはホテルに移動した。
前回と同じホテルだ。
今回は彼がいることを考えてダブルを予約したのだが――。
できるだけ人目につかないように、彼を支えて部屋に連れて行った。
ベッドに座らせ、また頭を抱く。
時々しゃくりあげながらも、ずっと俺のシャツを握る彼。
何も言わずに、ただ泣き続けて。
このまま泣き疲れて眠ってくれればまだ幸いだったのに。
彼の心に根差す恐怖は大きくて。
もう何もかもがぼろぼろなのに決して眠ってはくれなかった。
涙も枯れ果てたころ、まだすすり上げながら彼が言った。
「ご、めん」
呼吸がまだ落ち着かない。
「いや、……俺が悪かったから。……ごめん」
それに対して彼は何も反応しなかった。
きっと彼もそう思っているんだろうと思った。
ただ、遠方から助けに来た人間に酷い言葉を投げつけたくなかった。
だから黙っていた、というのが彼の本音なのではないだろうかと考えた。
さて、これからどうしようか。
彼の頭を抱いたまま、俺は軽く天井を仰いだ。
彼の薄っすら湿ったTシャツ。
ひとまず、彼の着替えが必要で。
多分食事なんて出られるはずもないだろうから、食料も必要で。
後は……。
俺は時計に目をやった。
現在、午後四時。
あと二時間もすれば日は落ちるだろう。
それまでに準備は整えておかないと。
「……ところで、色々要ると思うから、出ようかと思うんだけど」
彼の身体が一瞬強張った。
真っ青な顔が目を見開いて、俺を見上げている。
本当に、ぼろぼろだった。
「少しだけ、待ってて。すぐ目の前だから」
俺はホテルの窓から向かいに見えるビルを指差した。
ホテルの前にはショッピングセンターがある。そこで全て揃いそうだ。
彼は俯いて黙っていたが、何かを決したように頭を一度縦に振った。
「欲しいものある?」
しばらくの沈黙の後、彼の頭が左右に揺れた。
「じゃ、行ってくるから」
俺は抱いていた頭を一度だけ強く抱いて、手を離した。
湿った熱が急に冷えて、じっとりとした感覚が体に残った。
俺はショッピングセンターで、できるだけ頭を回転させた。
彼を待たせるわけにはいかない。
でも何度も出られないだろうと思うので、忘れ物はできない。
まずは食糧。
そして頭痛薬。(また頭が痛いと言い出しそうなので。)
彼の着替え。
あと、何か冷やすものを買っておいた方がいいかもしれない。
目がばっちり腫れていたから。
色々考えて、買い物を終わらせて。
それでも三十分以上かかってしまって。
俺は両手に荷物を抱え、急いでホテルへ戻った。
ホテルに戻ると彼はいなかった。
どこに⁉
俺は荷物をテーブルに降ろし、彼の姿を探した。
洗面所から何か音がする。
そっと近づいて、耳をそばだてるとシャワーの音がした。
ドアをノックして、声をかける。
「着替え、買ってきた」
するとドアの向こうから「開いてる」とだけ声が返ってきたので、俺はドアを開けた。
シャワーカーテンの向こうに彼がいるのを確認し声をかけた。
「ここに置いとくから」
そして着替えを傍に置き、ドアを閉めた。
数分後、彼が出てきた。
頭はまだ濡れたままで、頭からバスタオルを被り。
俺が買ってきた着替えを着ている。
サイズは大丈夫なようだ。
でもまだ目は虚ろで。
「……汗かいて、気持ち悪かったから……」
彼は小さな声でそう呟いた。
「そっか」
近づいてきた彼を抱き寄せる。
彼もそれに身を任せる。
男同士で、恋人同士でもないのに。
俺たちは当たり前のように抱き合う。
夢でも。
今、現実でも。
その後は、ベッドの上に座ってテレビを観ていた。
彼を前に、俺が後ろから彼を抱いて。
別に面白くはなかった。
観たい番組もなかった。
ただただ司会者の話に笑うゲスト。
ゲストが笑うので、またひたすら話を広げる司会者。
何でも良かった。
ただ音があれば良かったんだ。
できれば賑やかな。
馬鹿馬鹿しくても何でもいいから。
俺たちの暗闇を少しでも忘れさせてくれる音が欲しかった。
そうしている間に日は暮れて。
また彼の精神が揺らぎはじめた。
膝を折って、その上に置かれた腕に顔を埋めて。
気を紛らわせようと、彼の頭に触れて尋ねた。
「何か食べる?」
「ううん……」
彼の頭が左右に揺れた。
でも、恐らく昨日の夜から何も食べていない。
少なくとも俺と会ってから何も口に入れてないのは確かだ。
「何か腹に入れておいた方がいいって」
「じゃ……、なんか飲む物だけ……」
できるだけ腹に溜まるやつを、と思って紙パックのオレンジジュースを差し出すと。
彼はそれを受け取り口を開いた。
ストローを使わずにそのまま口に運ぶ。
ひとまず何か口に入れてくれたことに安心し、俺もパンとコーヒーを取り出して食べた。
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