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4.天上の雨(2)

 また暫くテレビを観て、俺は立ち上がった。 「俺もシャワーしてくる」  彼は顔を伏せたまま動かない。  でも少しの間を置いて、一度だけ頭を揺らした。  承諾するのに時間がかかった、という感じだった。  手早くシャワーを済ませ出ると、彼はさっきと同じポーズだった。  近づくと彼が震えているのが分かった。  夜が更ければ更けるほど、彼の精神が重圧に潰されていく。  そんな風に見えて仕方がなかった。  肩に触れると、彼はビクンと大きく反応し、顔を上げた。  でも俺だと分かると、ほっとした表情を見せ、また顔を埋めてしまった。  彼の隣に座り、彼の肩を引き寄せる。  すると彼はまた、身を委ねてくる。  ただ、その姿は夢と違う。  夢ではただ俺の行動に従うだけ。  でも今は引き寄せると、そのまま身を委ねてきて。  俺の背に腕を回し、しがみついてくる。  その手が震えていた。  俺に必死ですがりついて。  俺はそんな彼の頭を撫でながら、彼が落ち着くのを待つことしかできない。  でも、きっと夜が明けるまで落ち着くことはないと思う。  俺は一つ提案した。 「もう寝る?」 「ぃや……っ」  空気を裂くような声が聞こえた。  俯いたまま頭を振って嫌がる。 「寝ない……。寝たくない……っ」  俺の胸からぽろぽろと、破片の様なものが零れた。 「でも、昨日の夜から寝てないんじゃ」 「……大丈夫、寝なくていい……。大丈夫だから……」 「じゃせめて横にでもなった方が」 「いい、ならない。大丈夫だから……」  横になるのを嫌がるのは。  やはり寝てしまうからなんだろうな。  仕方ない。 「でも、俺は寝るよ?」  すると彼は顔を上げるなり、裏切り者を見るような目で見つめてきた。  そんな顔をされても……。  俺だってあれから寝てないんだ。 「一緒に寝たら大丈夫なんじゃない?」  前もそうだったじゃん。  そう説得して、なんとか彼を横たわらせた。  以前と同じように。  俺が彼を後ろから抱きしめて横になった。  ダブルベッドな分、ゆったりと横たわることができて。  彼の体温も心地よくて、うとうとしはじめる。  しかしあと少しで寝付けるか、という時に彼が動くので目を覚ましてしまう。  そんなことが三、四回続いた。  五回目にして、俺は彼に尋ねた。 「眠れない?」 「……うん」  遠慮勝ちな声。  俺を気遣っているようだ。 「……寝れそうだな、ってなると、急に怖くなって、……目が開いてしまう」  睡眠恐怖症。  そんな言葉が浮かんだ。  眠っている間に自分がどうかなってしまうのではないかと不安に駆られ眠れなくなる病気。  不安で張り詰めた精神が睡眠を妨害する。  俺は子供をあやすように彼の頭を撫でた。 「大丈夫。……俺がいるから」  無責任な言葉だと思う。  俺がいたら何なんだ。  何ができるんだ。  でも、ただ安心させたかったからそう言った。  彼はそんな俺の言葉を信用してくれた。 「うん……」  そう呟いて、眠ってくれた。  健やかな寝息。  それを聞いて、俺も安心して眠りにつくことができた。  このまま朝まで安らかに眠れるんだと思っていた。  夜中、妙な音で目を覚ました。  隙間風が入り込むような、鋭い空気の音。  ヒュ、ヒュ、と規則正しくはあるが、浅くて重い音。  意識がはっきりすると、俺の腕の中で何かが揺れていることに気づいた。  彼の身体。  と分かった瞬間、俺は跳ね起きた。 「おい」  ルームライトをつけ、彼の体を揺する。  彼の体が仰向けになるが、彼はまだ目を覚まさない。  俺は彼が起きるまで、ずっと揺すり続けた。  ひときわ鋭い空気が、彼の喉を通過する。  その音とともに体が跳ね、彼が目を覚ました。  恐怖で見開かれた目。  浅い呼吸が続く。  そのリズムが少しずつおかしくなっていって。 「――――ア……アア、アアアァ―――――ッ‼」  彼は両手で目を覆うと、悲鳴を上げた。 「大丈夫だから。落ち着いて……!」  彼の精神が激しく揺れる。  声にならない、鋭く空気を裂くような悲鳴。  俺は彼の身体に覆い被さって、ずっと頭を撫でて。  大丈夫だと繰り返した。  それしかできなかった。  彼が乱れた呼吸に咽る。  俺のシャツがまた彼の涙でぐちゃぐちゃになる。  俺の胸がひび割れて、そこから流れ出たような錯覚。  彼の背に腕を回して抱き起こし。  その身体を抱き直した。 「夢を見た?」  しがみつく彼の頭が必死な様子で縦に揺れた。 「く……らい、まっくろな、ところで、一人だった……」  紫と黒が混ざる禍々しい靄に呑み込まれ。  逃げても逃げても靄から出られなくて。  無数の目に見つめられ。  でも助けてくれる人はいなくて……。  恐怖で胸が締めつけられて……。  真っ暗な光景の中で、目の前が真っ暗になって。  そこまで言って彼は、しゃくり上げた。  俺は夢を見なかった。  もしかすると、彼だけが夢の続きを見て……?  彼の頭を包み込む。  俺はその手に強い感情を込めながら。  一言声を漏らした。 「ごめん……っ」  俺が橋を渡ろうと走らなければ。  あの時目覚めていなければ。  寝ようと誘わなければ。  道程を辿れば後悔しか出てこない。  また引き攣った呼吸の音が聞こえた。 「なんで……っ」  彼が俺の胸から離れる。 「なんで謝るの……っ⁉」  彼は涙を含んだ瞳で俺を見て、小さく咽て責めはじめた。 「なんでずっと、そうやって、謝るんだよ……っ!」  そして一度だけ俺の肩に拳を打ちつけた。 「謝んないでよ……っ。謝んないで……」  何かを振り払うように頭を振って、泣きはじめる。  悲痛な声を上げ。  浅い呼吸が止まらない。 「うん……」  俺はまた、「ごめん」と言いそうになるのを堪えて返事をした。  ずっと、彼が泣く。 「もぅ……、いやだ………。こんな……っ」  両手で頭を抱えて、必死に苦痛に耐えて。  嫌だ、と繰り返して。  彼の頭がふわっと揺れて俺の胸に当たった。  そのまま俺に頭を預けて。  しゃくりあげながら。 「……い」  浅い呼吸で必死に言葉を紡ぐ。 「助、けて……。……っ。もう、やだ……。お願い……。助けて……っ」  彼の精神が今までないほどに激しく揺れている。  懇願する声。  子供みたいに泣きじゃくって。  ぼろぼろになった心を映す声。  身体の震えが酷い。  発狂寸前。  彼は死に物狂いの様相でずっと「助けて」と繰り返し。  浅い呼吸とともに、掠れた音を吐き出すと。  ふっと俺にキスしてきた。  湿った感触が唇に伝わる。  何をされているのか、状況を把握してるのに。  『頭が真っ白だ』という意識が頭の中を埋め尽くしてしまって。  本当に、何も考えられなくなった。  そんな間にも、彼の唇の感触が何度も俺の唇に伝わった。  熱くて柔らかい。  のに、冷たくて切ない。  あの柔らかな音を紡ぎ出す唇の熱が俺の中に流れこむ。  何度もキスを繰り返した後。  彼は俺にしがみついて言った。 「ねぇ……。……っしよう……よ」  背筋に雷が落ちたような衝撃を受けた。  今、彼は何て……⁇ 「な、何言って……」 「……貴方の好きなように、すればいいから……。しよ……っ」  どんどん精神が崩壊する。 「貴方、俺としたいんでしょ……。……やれば、いいじゃん……っ」  しようよ……。しよ……っ。 「ちょっと、落ち着けって」  肩を掴んで、一度彼の体を離す、が。  あの綺麗な声が藻掻くようにずっと。  「しよ」って繰り返して。  助けて、助けて、助けて……。  抱いて、抱いて、抱いて……。  音がいくつもの反響を繰り返しながら、俺の脳に流れ込む。  この音は現実で鳴っているものなのか?  夢の中の音なのか?  目の前の光景が夢の中の光景と重なって。  だんだん訳が分からなくなってしまって。  いつもなら、きっと彼の恐慌を必死で止めただろうに。  いつもなら、『ふざけるな!』ぐらいは言っただろうに。  彼を拒絶するぐらいのプライドはあっただろうに。  『それ』でしか助けられないよ、とどこからか声がして。  俺は何かに引き摺られるように。  彼にキスしていた。

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