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5.天上の虹(4)
時計の針が午前八時を指していた。
昨日何もしなかったうえに、早めに寝たから早く目が覚めたのだろう。
おかげで気分もすっきりしている。
俺の腕の中、彼はまだ眠っていた。
時計を見るため体を動かしたのだが、気にならなかったようだ。
いつの間にか寝返りを打ってしまった彼。
彼の顔が、すぐ傍にある。
起きても良い時間だが、もう少しゆっくりしてもいいだろう。
また彼の寝顔でも見て待とうか。
規則正しい寝息。
この様子だと、今日も夢は見ていないようだ。
相変わらずの端整で清澄な雰囲気の顔。
そういえば年齢を知らないな。
何歳なんだろう。
つい彼の頭を撫でてしまう。
「ん……」
彼の声が漏れた。
ふわっと瞼が開き、黒い瞳が姿を現す。
「おはよ」
「…………」
まだ意識が完全に覚醒しないようだ。
彼が何度か浅い瞬きを繰り返す。
そしてまだ覚束無い意識のまま。
柔らかな声を零した。
「おはよ……う……」
また目を擦る。
そんな仕草が可愛くて、ついまた頭を撫でてしまった。
なんか子供を可愛がるようでもあるけれど。
どんどん節操がなくなっている俺。
今日は彼が先に洗面所を使った。
やっぱり洗顔だけの気がするんだが……。
下らないことだとは分かっていたが、少し気になって尋ねてみた。
「髭、生えないの?」
「へ?」
彼は一瞬戸惑った後、あぁ、と言葉を漏らし答えた。
「俺、薄いから週に一、二回でいいんだ」
「そうなんだ」
「うん」
変なこと訊くね、と言いたげな顔だ。
そこではっと気づく。
彼が目を合わせてくれている!
胸がぎゅっと苦しくなった。
……なんか乙女だな、俺。
仕度を済ませ、俺たちは空港で借りたままのレンタカーで出発した。
途中、彼から頼まれ、彼の家に寄った。
数分後出てきた彼の背には、ギターが見えた。
「向こうにはピアノがあるんだけど、まぁこれもあった方が良いかと思って」
後ろのシートにギターを預け、彼が言った。
彼が歌に対して前向きになってきている気がして嬉しかった。
その後、コンビニで食糧なんかを買い込み、プレハブへ向かった。
プレハブは住宅地から少し離れた場所にあった。
持ち主は彼が組んでいたバンドのメンバーらしい。
ただ、今は解散してしまっているので、最近では彼が使うぐらいなのだと言う。
バンドのメンバーは今でも彼を応援してくれているようだ。
「少し埃っぽいね」
入ってすぐ、彼が窓を開けた。
俺も換気を手伝い、座れそうなところを確保し座った。
彼がギターのチューニングを始めた。
「何歌おうか?」
と尋ねてくるが。
「そうだな……」
特にすぐ思いつくわけではない。
少し考えてみたが、やっぱり思いつかないのでこう答えた。
「ひとまず発声練習兼ねられそうな、やりやすいのやって」
「ん、分かった……」
彼が適当にギターの音を鳴らしはじめた。
曲を探しているのだと気づく。
音が浮かんだようだ。
彼が歌いはじめた。
やっぱり綺麗な声だった。
格別に澄んだ声。
柔らかいけど、弱くはない音。
高音になれば、滑らかに男性の声から女性の様な声に変わる。
神秘的な声。
一曲が終り、彼がふっと息を吐いて呟いた。
「ほんと、久しぶりだから、落ちてるなぁ」
でもどこか満足げで、嬉しそうだ。
良かった。
精神的な重荷がだいぶ消えているみたいだ。
「なんかリクエストある?」
彼がまた訊いてくる。
「じゃあ……」
思いついた曲を何曲かリクエストした。
すると彼は快く承知してくれ、歌ってくれた。
彼の歌声がプレハブに響く。
本当に綺麗な声だ。
心酔しながらはっと気づく。
もしかしたら、これは凄く贅沢なことなんじゃないか?
アマチュアとはいえ、沢山のファンを抱える彼だ。
そんな彼の歌を生で聞けて。
しかも俺だけのために。
凄く贅沢なことだ。
俺の心臓がトランポリンの上で踊っていた。
一区切りがつき、彼がペットボトルの水に手を伸ばした。
「凄く良かった!」
俺は思わず興奮してしまい、拍手しながら声を上げた。
すると彼はふふ、と笑い声を立てて「ありがとう」と礼をくれた。
「なんか、貴方の違う一面を見た気がするなあ」
「そ、そう?」
「うん」
「はは……」
確かに子供の様に興奮した姿を見せてしまったかもしれない。
でも、まだ俺の心臓はトランポリンで遊戯中だった。
水をほどほどに流し込んだ後、彼が尋ねた。
「そういえば、貴方いくつなの?」
「年齢?」
「うん。」
「二十二」
「へぇ。落ち着いてるし、大人びてるんだね」
「あんたは?」
そう言えば、『あんた』なんて平気で言ってるなぁ。
「二十四」
…………え?
二つ年上⁉
下手すると十代でも通りそうな童顔。
年下か、いってて同い年ぐらいかと思っていた……。
「ごめん……。……年下だと思ってた」
すると彼は笑った。
「だろうと思ってた。俺の方は『年下じゃないのかな』って思ってたんだけど」
結構鋭くお見通しだったんだ。
俺は自分の非礼を詫びた。
彼は気にしていないし、これからもそれでいい、と言ってくれた。
少し気になるけど、下手に態度を変えた方が気まずいか。
甘えることにしよう。
昼を少し過ぎたころ、買ってきた食事をしながら、暫く駄弁を弄した。
そして腹ごなしにまた歌ってもらい、その歌声を楽しんだ。
ふと彼が言った。
「貴方も歌ってみない?」
「え? 俺⁇」
お、俺、カラオケにも行ったことないんですが……。
……でも実は歌うこと自体は嫌いじゃなくて。
家で、ちょこちょこ歌ってたりして。
でも人前で披露するほどに歌えはしないんですが……。
「何かない?」
「えっと……」
歌う空気ですよね、これ。
「じゃ、この歌……、知ってる?」
歌えるかな……。
俺はある曲を上げた。
プロの曲だけど有名な曲じゃない。
けど気に入っていて。
そして歌いはじめた曲。
「あぁ、んと、待って。あ、弾けそう」
彼もその曲を知っていたらしい。
「じゃ、いくね」
「ん……」
やばい!
凄く緊張してきた!
けど、意外や意外。
ギターの旋律を聞くや否や、俺は曲と同化した。
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