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5.天上の虹(5)

 ただ必死、というより熱中して歌った。  他の色々なものが見えなくなって。  彼の弾く弦の音しか聞こえなくなって。  その音の世界にさっと溶け込んで。  歌えた。  歌い終えると、はっと現実に放り出された。  その瞬間、さっと意識が青く染まる。  俺、どんな風に歌ってた……?  そっと彼の方を覗うと。  彼は目を見開いて、呆然とした様子で俺を見ていた。  うわぁぁぁぁ。  俺、多分凄いものを晒してしまったんだ。  どっかの穴に入りたい。  でも、そんな俺に届いた言葉は想像から全くかけ離れたものだった。 「凄い! 凄いよ!」  え……? 「貴方すっごい上手なんだ! びっくりした‼」  彼が興奮しながら声を放った。  綺麗な瞳を、なおキラキラと輝かせて。 「低音が鋭いのに滑らかで綺麗。歌い方もセンスあるし。本当にかっこ良かったよ!」  彼の声がトランポリンで踊っている。 「そ、そう?」  照れることすら叶わないぐらい、複雑な気持ちだ。 「うん、貴方もやればいいのに!」  ……何を? 「貴方なら、サイトのアマチュアランキング上位に入れるんじゃないかな?」 「それはないって」  俺は苦笑した。  簡単な言葉で彼の声を払ってしまったけど。  俺が、動画サイトで歌を披露……?  急な展開に目が回った。  その後、また軽く駄弁を弄した。  彼の表情が明るい。  先々日の姿が嘘の様で。  それだけでも穏やかな気持ちになれた。  俺にも自分の生活があって。  どうしても明日には帰らなければならない。  だから不安な気持ちのまま、後ろ髪引かれる思いで帰りたくはなかった。 「さて、次歌う曲は何にしよう?」  彼が楽しそうに尋ねてくる。 「……そうだな」  彼がアップしている曲は大体聴いた。  とすると、後は……。 「あの、この歌知ってる?」  俺は持ってきていたMP3からその曲を選び、彼に聞かせた。 「あー……。……ごめん、聴いたことないや」 「そうか」  一応プロの楽曲ではあるが、これも有名な人のではない。  ただとても綺麗なバラードで、彼に似合いそうだと思ったのだ。  聴いてみたかったが、諦めるか。  そう思った矢先。 「綺麗な曲だね」  彼が食いついてきた。 「んー。ちょっと待って」  彼が熱心に曲に耳を傾ける。  何回か聴いてもいい?  そう尋ねてきて。  いいよ、と答えると彼は目を閉じた。  ヘッドホンに手を当て、じっと動かない。  彼が曲を体内に取り込んでいるように見えた。  数十分後、彼が目を開いた。 「多分、もう歌えると思う」  本当に⁉ 「ただね」  彼が溜め息をついた。 「この曲、ギターじゃちょっと……」  確かにギターでの伴奏は難しい。  ただ、俺にはとっておきがあった。 「俺、これのピアノ伴奏弾けるんだけど」 「本当に⁉」  彼の声が跳ねた。 「ピアノ借りるよ」  俺は彼の傍にあったピアノの前に腰を下ろした。  蓋を開け、鍵盤をいくつか押してみる。  音は狂ってなさそうだ。  まずは俺が練習で弾いてみた。  まぁ、なんとか弾けた。  二回目。  次は俺の練習に合わせ、彼が流す感じで合わせてきた。  そして三回目。  本格的に合わせてみた。  少し切ないメロディライン。  澄んでいて、中国映画のエンディングの様な壮大感のある曲。  そんな旋律に彼の声が合わさった。  森の中をこだまし、天に突き抜けるような歌声。  音楽と対話するような声。  そんな声に神がかったものを感じながら、俺は鍵盤を弾いた。  曲が終わり、彼が言った。 「これ、アップしたい」  貴方の伴奏で。  また彼の目がキラキラと輝いている。 「俺の伴奏でいいの?」 「貴方の伴奏がいい」  清々しい表情で、真っ直ぐにそう答えてくれる。  ……やばいですよ。  あなた何も分かってない……。  俺があなたに惚れてるってこと、分かってないでしょ……?  俺は思わず口を覆った。 「駄目……、かな?」  俺が紛らわしい仕草を見せたのが良くなかったらしい。  彼の表情が曇った。  でも瞳には必死にねだる色が見える。  駄目なわけないじゃありませんか……。  俺はあなたのファンで、盲愛って言えるほどに惚れてるんですよ……? 「本当に、俺の伴奏でいいわけ?」 「うん」 「じゃ、お願いします」 「やった‼」  彼が子供の様に喜んだ。  そんな彼を見て。  やれやれって顔をするけれど。  俺だって喜びを表現できないほどに喜んでいた。  いや、喜べないほどに感動していた。 「じゃ、こちらこそよろしくってことで、早速録音していい?」  え⁉ 「一発録りするの?」 「ううん。まずは伴奏録る」 「はい……」  全力で弾かせていただきます。 「あ、そうだ」 「ん?」  彼が少し言い出しにくそうにして、顔の前で手を合わせた。 「俺さ、結構我侭だから。……何回か、弾いてもらう、かも?」  合わせる手の向こうから覗く彼の瞳がうるるとキラリ。  指が折れるまで弾かせていただきますっ……! 「ん、いいよ。あんたが納得いくまで弾く」  すると彼は。 「ありがとう」  にこっと可愛らしい笑みを浮かべた。  やっぱりキラキラしている。  ……俺の心の余裕ゲージが減るので、あまりキラキラしないでください。  その後は俺がピアノを弾いて。  彼が歌って。  納得いかないところはやり直して。  何度も話し合って。  日が暮れるころに。  曲は完成した。  彼がヘッドホンをつけ、目を閉じた。  俺は黙ってその姿を見つめる。  睫毛が長くて綺麗だな、なんて。  彼の目が開いた。 「うん。気に入った」  声が少し掠れている。 「アップできそう?」  俺が尋ねると。 「ん。あとは家で編集してすれば完璧」  彼はまたにっこりと微笑んだ。  この『光線』は危ない……。  ホテルへ戻る途中、俺たちはまた先日の呑み屋に入った。  今日はテーブル席だ。 「貴方歌も上手いけど、ピアノも弾けたんだね」  料理に手をつけながら、彼が声を弾ませる。  まぁ、歌が上手いかどうかはともかく。 「ピアノは小さいころ習ってて。それでなんとなく」 「へぇ。ピアノも上手だったよ」 「はは……、どうも」  彼の目がずっと輝いていた。  食事をしながら、会話に興じて。  こうしていれば、本当にただの『友達』だった。  周りにいる他の客だって、店員たちだって何も疑わない。  俺たちが、夢を共有してて。  夢の中でも、現実でも。  必死に戦っていて。  俺は彼を好きで。  肉体関係もあって。  でも恋人同士じゃないなんて。  誰も思わない。

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