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5.天上の虹(6)
ホテルに戻ると、どっと疲れが出た。
それは彼も同じだったようだ。
また彼に先にシャワーを使ってもらって、その間に明日の仕度をした。
出していた荷物を、バッグに詰める。
ビニール袋に入れた下着を端に除け。
シャツを押し込んで。
……少しずつ心が重くなっていく。
『寂しい?』
それは、俺自身の気持ちだ。
寂しい、というのだろうか?
つらい、という方が近い気がする。
彼と離れるのが、こんなにつらくなるなんて……。
しまったな。
ここにいる間に、自分の気持ちを悟るんじゃなかった。
彼と入れ替わりでシャワーを使う。
上から落ちてくる飛沫に身を任せ。
こんな気持ちも洗い流せないだろうかと。
仕方のないことを思った。
一昨日、彼に引っ掻かれた腕の傷が少しだけ痛んだ。
俺が部屋に戻ると、彼はもうベッドに寝転がり、うとうとしていた。
先に寝られたくない!
俺は焦って。
「待って! 寝るのもう少し待って!」
つい彼の体を揺すってしまった。
彼が起き上がり、目を擦った。
「あ、うん……。ごめん。大丈夫」
ひとまずほっとするけど。
同時に、真剣に焦った自分が第三者の視点で脳に蘇った。
なんか俺、どんどんみっともなくなってる気がする。
彼が膝を抱えてぼんやりしていた。
かなり眠そうだ。
いつまでも彼を待たせないように、俺はすぐに寝る準備を整えた。
ベッドにもぐりこみ、横になって。
また彼を背から抱いて眠る。
彼はそれを自然に受け入れた。
が、彼は数分後もぞっと動いた。
「今日は、こっち向いて寝る……」
そして、俺の方へ体の向きを変えた。
え……っ。
それは、まずい! ……かも。
ライトは消しているけれど。
向かいのショッピングビルの非常灯や街灯が窓から入り込んで。
部屋は若干、青白く染まっている。
そんな中で、彼の輪郭ぐらいは見えて。
彼の頬が青白く輝いて。
色々な要素が合わさって。
心の余裕ゲージが大きく減らされてしまう。
恋人同士みたい。
心臓が楽しげにジャンプしている。
この振動が彼に伝わりそうだ。
「……ね」
彼の声がした。
その声だけで、俺の心臓がひときわ高くジャンプした。
「何?」
「あのさ、……話を蒸し返すようで悪いんだけど……」
「うん?」
なんだろう、なんだろう、なんだろう、なんだろう。
「俺、取り乱しても、もう、貴方と寝ないって、言ったよね……?」
「うん……」
彼を抱く腕に思わず力がこもる。
何かに彼を盗られないように。
そんな感情が湧き上がる。
「あれ、間違い。……俺、あんな風に取り乱すこと自体が、もうないと思う……」
「何で?」
なんか、上手く言えないんだけど、と彼は断った。
「……俺、貴方と寝て、本当に救われたみたい、なんだ……」
「……どういうこと?」
「まだね、貴方と一緒だから、そう思うだけかもしれないけど」
これから、また夢を見ても、ちゃんと戦っていけそうな気がするんだ。
夢の中でも、貴方が傍にいれば、大丈夫だって思える気がするんだ。
前に進めそうな気がするんだ。
そうして、彼の声が途切れた。
「そうか……。良かった……」
胸に正体不明の液体がじん、と染み渡る。
その言葉で、俺も救われた気がした。
彼を抱く腕の力を、また一度だけ強めた。
ただ、一つ疑問があった。
救われた彼は、なぜ俺の腕の中で寝てくれるのだろう?
「ところで、俺まだこうして寝てもいいわけ?」
心臓をガチガチ言わせて尋ねる。
『あ、もう必要なかったね』なんて言われたら……。
彼が小さく笑った。
「うん、いいよ……」
心臓がふかふかのクッションに受け止められた。
しかしまた試練は訪れる。
「貴方の体温、凄く落ち着くんだ……」
そう言って彼は。
俺に擦り寄ってきた。
また香る、桜。
ああああああああ‼
もう無理です。
心の余裕ゲージが空になりました。
余裕エネルギーの補給が必要です……。
「ごめん、もう無理」
『キスしていい?』なんて聞く余裕もない。
ちゅ、と彼の額にキスをする。
そして眉間のあたりにもキス。
もう止まらない。
彼の頬に触れて、唇にキスをした。
何度も、何度も。
キスを繰り返す。
彼は小さな息を漏らして戸惑っていた。
俺はそのまま彼の上に被さり。
彼の首に唇を移す。
そして、彼のスウェットに手をかけた。
が――。
「それは駄目!」
思いっきり突っぱねられた。
胸に彼の両手が押し付けられて少し痛い。
「『それ』は、できない……。その、もししちゃったら……」
明日見送りできなくなるからっ。
彼の顔が熱い。
多分、また噴火を起こしている。
「……うん、ごめん……。……ちょっと調子に乗った」
そう言いつつも、俺はちゃっかり彼を抱き寄せているわけで。
でも彼はそれについては嫌がらない。
「……俺の方こそ、ごめん。貴方の気持ち考えないで」
酷いことしてるってのは分かってる、んだけど……と、もぞっと動く。
それは、事実だ。
これは、かなり厳しい。
でも、彼を手放すぐらいなら、全然しなくていい。
代わりに冷静エネルギーが補給され、俺はなんとか落ち着いた。
「おやすみ」
彼に声をかける。
「おやすみ……」
彼も柔らかな声で囁く。
それからすぐに彼の寝息が聞こえはじめた。
心地よい体温を感じ、俺も眠りにつく。
また桜の香りがした。
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