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6.天上の風(2)
夢の中。
屋敷に向かう前に、俺はまた吊橋を目指した。
やっぱり見えない吊橋の先。
吊橋の向こうに、本当に『向こう』なんてものがあるのかと疑いたくなるぐらい。
長い、長い吊橋。
ふと、俺の脳に暗い思考が浮かんだ。
もし、一人で渡ったら、どうなる?
そしたら、もしかしたら、俺だけでも、この夢から逃げられるのでは……。
その瞬間、酷い自己嫌悪に陥った。
彼を置いて逃げるなんて。
なぜそんな発想ができたのか理解できない。
ほんの一瞬でもそんなことを考えた自分に。
怒りを通り越して、恐怖すら感じた。
吊橋に背を向ける。
回れ左の動作の途中、あるものが視界を流れた。
あれは確か……。
右向け、右をする。
目の前に、大きな木があった。
その木に近づき、そっと触れる。
この木は……。
桜、だ。
そう言えば、彼の住む地方の桜は少し違うって言っていたな。
明日あたりネットで見てみようか。
そう思い、その場を離れた。
また今夜もチャットをする。
今日は珍しく、ボイスチャットではなくただのチャット。
彼が編集作業を行っているためだ。
素人の感覚からだが、結構時間がかかるもんなんだなと思った。
あのプレハブで録ったのがほぼ完成だと思っていたから。
【-編集って結構かかるもんなんだ】
急かすようで悪いかと思いつつも尋ねてみる。
少し間をおいて返事が来た。
【-いや、今回は特別かな】
やっぱり無理をしているんじゃないだろうか?
心配になる。
また言葉が画面に浮かんだ。
【-なんか満足いかない部分が多くて。編集作業の段階でね】
つまり収録までは完璧にやったと言いたいのだろう。
【-そうなんだ】
あまり邪魔をしてはいけないな。
そう思い、俺はネットサーフィンを始めた。
何を調べようか。
そうだ、桜を見よう。
彼の住む地方にだけ咲く特別な桜。
だがその桜の品種を聞いていなかった。
なので俺は彼が住む地方の名前と、桜とで調べた。
エンターキーを押すと、画面に検索結果がずらっと並ぶ。
画像検索に切り替えて、写真を眺めた。
確かに違うような……。
ただ写真が小さくて、これといった感覚はない。
だが一枚の写真を拡大してみて、俺は驚いた。
境界線を失くした真っ青な空と海。
そしてその背景の中で咲き乱れる桜。
艶やかな紅の花が無数に開いて。
本州では考えられない、鮮烈な桜の風景。
なんて綺麗なんだろう。
邪魔してはいけないと思ってから、数分。
俺はまた彼に言葉を送った。
【-桜見た。すっごい綺麗】
【―でしょ。でも本州の桜も綺麗だよね。生で見たことないけど】
本州の桜は白に近いピンク色だ。
どっちかと言うと、彼にはそちらの方が似合いそうだが。
満開の桜の下に立つ彼の姿を想像する。
あぁ、綺麗だな。
と、思えば、会いたいという気持ちが込み上げる。
夢でも会えない。
現実ではもっと会えない。
ゴト、と机に頭を委ねる。
そして呟いた。
「会いたい、……な~……」
今日はボイスチャットではないから大丈夫。
でもどこか勇気を振り絞ったような言い方になってしまって。
勿論、それに対する返事はない。
今夜は彼と会えますように。
そう祈って。
あぁ、俺ってこんなにセンチメンタルな人間だったっけ?
――と首を傾げた。
悲しいことに、また彼はいなかった。
一通り探して、一番奥の部屋に腰を下ろす。
彼のいないこの夢に、なぜ俺はいるのだろう?
少なくとも、これは『俺の夢』ではないはずなんだが。
そんなことを考えていたら。
庭に通じる障子が開いた。
ス、と黒い靄が中を覗き込み。
そろっと入ってくる。
化物は俺を認識した後、床の間まで移動した。
手(なのだろうか?)には一枝の鈴蘭が握られていて。
花瓶の前で、しゃがむように縮こまり。
花瓶に手を伸ばす。
その時。
何かが見えた。
黒い靄の中からほんの一瞬だけ見えた、ような気がしたものは。
白い手。
その手が鈴蘭を生けている。
あれは? あれはなんなんだ⁇
すぐに黒い靄の中に引っ込んでしまったが、確かに見えた。
俺は靄に掴みかかった。
だが靄なので、勿論掴むことはできず、俺の手は黒い中に消えた。
ただ、その靄の中に誰かがいる感触はなく。
一体あれはなんだったんだ、とさらに疑問が募った。
起きるとメールが入っていた。
『今から寝ます。おやすみ。』
そのメールが届いたのが十分前。
なので、完全徹夜だったんだなと判断した。
無理するなって言ったのに。
心より体が心配になってきた。
……それにしても、彼は一体何をしている人なんだろう?
フリーターには違いないんだろうな。
また一日の生活が終わって。
俺は家に帰る。
今日は夢で会えるだろうか。
そんな心情を抱えて。
眠りにつく。
鬱蒼と茂る森の中。
彼の歌声が聞こえた。
今日はいる!
俺は走った。
玄関で靴を乱暴に脱ぎ捨て。
一目散に奥の部屋へと向かった。
つい、乱暴に襖を開けてしまった。
すると、中に居た彼がびっくりして。
ぴたっと歌が止まった。
俺の形相があまりに酷かったんだろう。
彼は唖然とした後、少し脅えた仕草を見せた。
『ごめん』
謝って、息を整える。
それから、彼の傍に寄った。
横に腰を下ろして、改めて彼の姿を覗う。
彼も落ち着きを取り戻そうとしているように見えた。
ああ、会えた。
心の底から安堵する。
彼の顔にそっと手を伸ばした。
久しぶりの彼の姿。
これは夢。
現実ではない。
と、分かっているのに。
頭の中で自分の鼓動が響いて。
まるで脳の中に心臓が埋め込まれたみたいだった。
彼の頬に触れる。
陶器の様な白い肌の感触が伝わってくる。
彼は俺の手を受け入れてくれる。
じっと俺を見つめたまま。
その純粋すぎる瞳が綺麗すぎて、胸が痛い。
そのまま彼の肩に腕を回し、彼の体を引き寄せた。
彼は黙ってそれに従う。
彼の頭がゆっくりと俺の胸にぶつかった。
その振動で、また俺の鼓動が大きくなる。
ゆらっと、彼の顔が上がった。
不思議なものを見るような顔で俺を見つめてくる。
どうしたんだろうか?
眉を軽く顰めると。
彼の手が俺の左胸に触れた。
これは、キツい……‼
不思議そうに、俺の鼓動を右手で感じ取ろうとする彼。
温かい感触。
もしかしたら、「彼」は俺が彼を好きだって分かってないんじゃないだろうか……。
彼は暫く俺の鼓動を手で聞き。
それから、左耳を俺の胸に当てた。
まるで俺の心臓を可愛がるかのように。
スリスリ、と胸の上で動く。
待ってくれぇ‼
頼む、お願いだ。頼みます……っ!
俺を刺激しないでくださいっ……‼
自分から抱き寄せることには慣れていても。
抱きつかれることには慣れていない俺。
これは、やばい……。
どんなにしたくても。
セックスは疎か、キスだって許されるはずがないのに。
俺は彼を抱きしめて必死に耐えた。
良い香りがする。
鈴蘭の香りだ。
俺を刺激するのに十分な香り。
そんな中、じわじわっと想いが込み上げる。
ああ、『抱き合う』ってこういうことなんだ。
俺が引き寄せただけじゃ、こんなに彼と密着できない。
でも、今は彼がじっと俺の胸に張り付いているから。
どうしよう、どうしよう。
これ以上ひっついていたら俺の気がおかしくなりそうだ。
と思いつつも、彼から離れることができない。
彼がすぅっと、息を吸って。
ゆっくり吐いた。
その音がありえないぐらい甘く響いて。
くらっと目が回る。
ぷつ、と脳の奥で音が聞こえた。
一度彼の体を引き離して、顎を掬う。
そして現れた唇に、自分の唇を落とした。
ごめんなさい。
俺は、堪え性のない男です。
いや、本当は堪えられるんですよ?
ただ、あなたを前にすると『堪える』っていう単語がトリップしてしまうだけでして。
…………。
彼が細い空気を漏らす。
俺の腕を掴んで抵抗しているが。
俺の体を離せるほどの力はない。
次は拳が俺の肩を叩く。
必死なのだろうが、弱い力。
俺は彼を離さず。
何度も何度も彼の唇を楽しんで。
彼を解放した。
リズムのおかしくなった呼吸を繰り返して。
彼が心ここにあらずの表情を見せる。
唇が濡れて。
凄く色っぽい。
あぁ、もうダメ……。
ますますまともな意識が遠のいてしまって。
俺は欲望に誘われるまま、彼の体を押し倒した。
またキスをする。
彼の手がなおも抵抗しているが。
ごめん、もう無理だから。
所詮夢の中だし。
もう、何でもアリだから!
俺は彼の着物の帯に手をかけ、一気に解いた。
彼が驚いて、必死に俺の下から抜け出そうとする。
でも俺はそれを許さなくて。
彼の両腕を掴んで戒めて、首筋へ唇を落とした。
それを何度か繰り返して。
彼の着物の襟元に手をかけた。
その時。
サッと、彼の体が砂塵の様にして消えてしまった。
どこへ⁉
俺は辺りを見回した。
どこにもいない。
どこかから耳障りな音がする。
大きな音だ。
五月蝿い。
ぐっと目を瞑り、耳を塞ぐ。
何なんだ、この音は‼
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