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6.天上の風(4)
夢の中。
ここ最近、彼がいないことが多い。
彼がいないと分かるたびに、寂寥感に襲われた。
でも、その寂寥感を埋めてくれる存在がいて。
それが皮肉にも。
あの黒い靄の化物だった。
最初庭にいたあの化物は。
彼がいないと分かれば、平気で奥の部屋に上がりこんできて。
俺の傍に落ち着く。
座る俺の横から少し離れた場所に、ちょこんと座り込む化物。
……シュールな絵柄だと思った。
俺は『結界』じゃなかったのか?
俺の化物に対する印象は変化していた。
今までは、彼に仇なす存在。
つまりは敵。
そういう感覚だった。
だが、今は少し違う。
なぜだか分からないが。
化物自身に興味を持つようになってから。
化物がただ単純に敵だとは思えなくなっていた。
なんか化物が俺に懐いてきているような気すらして……。
変な感覚に襲われる。
俺は化物をじっと眺めた。
化物はただ庭の方を眺めている。
その横顔(なのか?)に浮かぶ瞳。
どこか彼の瞳に似ている瞳。
その瞳は悲しげな色を映していて。
……本当にこの存在はなんなんだ?
バイト中、彼からメールが入った。
『編集が終わった。あとはアップするだけ。』
そうか。
――と、一つの区切りを手放しに喜べなかった。
なんとなくだが。
その文章の後に『でも、それができない。』と続きそうな気がしたから。
夜、彼とチャットを始める前に彼の動画リストを覗いた。
予想どおり、まだ曲はアップされていなかった。
サイトを閉じ、チャットにログインする。
彼がインしていたので、ボイスチャットに切り替えた。
『-もしもし?』
「-もしもし」
互いに声を確認して。
俺は単刀直入に尋ねた。
「-どう? アップできそう?」
少しばかり時間を置いて。
『-ん……。頑張るよ』
彼が答えた。
つまりはアップするのにはまだ勇気が要る、ということか。
「-まだ気になってる?」
『-……まぁね』
彼は自分の掲示板を見ていないのだろうか?
……まぁ、彼がどう考えているのかはさておき。
なんとなく、目を通したくない気持ちも分かる気がするが。
「-あんたの気持ちを無視するわけじゃないけど、俺は早く聴きたい」
もうアップされた動画は耳にタコができるほど聴いたし。
すると彼は少し笑った。
『-うん。あと少しだから、頑張ってみる』
『頑張る』、『頑張ってみる』。
彼の口からよく出る言葉。
それだけ、自分を追い込んでいるんじゃないだろうか?
また、彼の精神状態が心配になった。
屋敷の中で、また俺は一人だった。
最近、ますます彼と会わない。
それは彼が眠っていないからなのか。
それとも、夢に入っていないからなのか。
毎晩いちいち確かめるのも気が引けてできず。
俺が屋敷の中で寛いでいると。
また姿を現す。
黒い靄の化物。
ス、と部屋に入り込んできて。
俺の傍に座る。
『おい』
俺は化物に声をかけた。
化物はじっと俺を見つめる。
これといった話はない。
ただ暇だから、声をかけただけ。
そして、独り言を零すだけ。
でもなぜか充実した気分になって。
意外と目覚めは良かった。
彼の新しい動画はまだアップされていなかった。
やはり、きっかけが必要なのかもしれない。
でも俺が何かをできるわけでもなくて。
そんなことを考えながら彼の掲示板を覗くと、コメントが急に増えていた。
俺が目を通していないコメントの中で一番古いコメント。
それが、『真犯人』かもしれない人物からのコメントだった。
『まだ歌ってるな。』を残した人物のコメントだ。
内容を要約するとこうだった。
【動画のコメントで、私の言葉が悪かったことを謝罪する。】
【私は彼のファンで、もっと世間に彼のことを知ってほしいと思い、出すぎたことをしてしまった。】
ふざけるな……!
胃がカッと熱くなった。
本当に動画にコメントを残した人物と同一人物の書き込みなのかは分からない。
でも、言い訳にしても酷すぎる。
実際そう感じたのは俺だけではないらしく。
そのコメントには多数の批判が寄せられていた。
それらのコメントを余すところなく読んで。
また俺の気持ちは複雑になった。
そのコメントを読んでいる間は、それらの批判意見に賛同した。
そのコメントを残した彼らを正義だと感じた。
でも掲示板を一望した時、なんて有様だろう、と胸が重くなった。
彼についての掲示板がこんなに荒れているなんて。
たとえ彼を擁護する言葉の数々であっても、批判的な口調は綺麗なものとは言えなくて。
パソコン画面が汚いもので埋め尽くされていた。
全てはたった一人の軽率な人間から始まったことだった。
でもそれはだんだんと大きくなっていって。
彼を取り巻く様々なものが黒くなってしまうような。
彼を黒いものが汚してしまうような。
そんな気分になって。
少し怖い、と思ってしまった。
「-あのさ」
いつものボイスチャット。
『-ん?』
言い出しにくかったけど。
俺はまた思い切って、疑問に思ったことを尋ねることにした。
「-……動画をアップできない理由ってさ」
また一呼吸置く。
「-『あの』意見書いた人に、また批判されるかもってことじゃないんじゃない?」
俺って本当にお節介だな、と思う。
考え方によっては、掲示板に擁護や批判のコメントを書き込むより汚らしい行為かもしれない。
彼の喉が詰まる音が聞こえた、気がした。
数秒おいて。
彼がぽつりと呟いた。
『-……貴方って、鋭いよね』
声が暗い。
「-俺もちょっと首突っ込みすぎだよな、とは思うんだけど」
『-ううん』
貴方は俺に巻き込まれた、被害者だから、と彼は言った。
『-むしろ、礼を言わなきゃならないかも』
「-いや、そんな」
そんな風に考えてくれていたなんて、と淡い感激を覚えつつ、耳を澄ませる。
少しの時間が経過して。
『-あのね』
彼が語りはじめた。
『-俺、歌が好きなんだ』
「-……知ってるけど?」
『-うん……』
重い声で彼は続ける。
『-だから、ただ歌えればそれでいいんだ』
勿論動画をアップするぐらいだから、他人に聞いてもらいたいという欲はあって。
沢山の人に聴いてもらえたら、それはそれで嬉しくて。
それを聴いた人が喜んでくれたら、それ以上のことはないと思っているし。
そんな欲もある。
『-でも』
彼の息がまた一瞬詰まる。
『-……俺が歌うことで、誰かが嫌な思いするのは嫌なんだ……』
悲痛な声だった。
「-……うん」
過去にあった事件も、今回の一件も、それぞれたった一人の人間から始まったものだった。
どちらにしても、結果多くの人間の意識、感情を巻き込み。
少なくとも『気持ちの良い思い』をした人間は一人もいない。
「-でも、それであんたが歌を歌わないのは勿体ないよ」
歌うことを強要するつもりはない。
でも、あんたの歌を聴いて、純粋に喜ぶ人間はいるんだ。
「-プレハブでの、俺の姿見たでしょ?」
彼が少し笑って『うん』と答える。
『-……多分あと少ししたら、大丈夫だから』
時間が解決してくれるよ。
彼は穏やかな声でそう言った。
「-分かった。……じゃ、今日はこれで」
『-うん。おやすみ』
「-おやすみ」
チャットのログオフ音がヘッドホンから聞こえた。
ヘッドホンを取り、俺は軽く髪を掻き上げた。
また一つ前進できたような気がした。
その時。
ふと、化物の姿を思い出した。
黒い靄の化物。
悲しげな、あの人に似た瞳を持つ化物。
まだあの存在を完全に把握したわけではないが。
俺は初めて化物に会うことを期待して眠った。
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