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7.天上の闇(1)
夢の中。
やっぱりあの人の歌声は聞こえなかった。
予想どおりだ。
奥の部屋に入って腰を下ろす。
するとまた障子が開き。
黒い靄が姿を現した。
俺はその姿を黙って見つめる。
靄はまた俺の傍に腰を下ろすように動いて。
じっと固まった。
不思議な気分だ。
いや、妙な気分だ。
今まであれほど恐怖を覚えたり、忌み嫌ったりした存在なのに。
今は少しだけ温かな気持ちで見つめられる。
近づいてみたい、と思わせられる。
『なぁ』
また独り言を始めてみる。
『あの人がいないから、代わりに俺が歌ってやろうか?』
靄の『顔』がこちらに向いた。
瞬きをして、俺を見ている。
半分冗談だったのに。
その瞳に釣られるようにして、俺はいつの間にか歌っていた。
所々音を外した。
リズムが狂った。
歌詞が思い出せなくて、時々鼻歌になった。
やっぱりあの人ほど上手くは歌えない。
でも、傍にいる靄はじっと俺を見つめて聞いていた。
「-昨日も徹夜だったとか?」
ボイスチャット中に尋ねてみた。
編集作業は終わったと言っていたので、もう徹夜をする必要はないと思うのだが。
彼の声が少し落ちた。
『-……いや。貴方とチャット終わらせた後、すぐ寝た』
「-え?」
とすると、彼と俺はさほど変わらない時間に寝たことになるのだが。
どういうことだ?
「-そうなんだ。最近夢に出てこないじゃん? だから、徹夜が続いてるんだと思ってた」
『-えっと……』
彼が少し戸惑った声を出した。
『-俺、徹夜してないよ?』
「-え?」
ますますどういうことだ?
最近彼が現れないのは、編集作業で寝る時間帯が狂っているからだと思っていたのだが。
「-最近、結構徹夜してたとかない?」
『-ない。メール貰った日と、メール送った日以外徹夜してないよ』
普段どおり、少々遅い時間ではあったが、普通に眠ったと言う。
では、なぜ彼は夢に現れなかった⁇
「-……夢、見た?」
『-ううん……』
そして、こう付け加えた。
『-少なくとも、あの夢は見てない』
「-じゃ、別の夢を?」
『―うん』
「-どんな夢だったか。訊いてもいい?」
『-あのね……』
真っ暗な中で一人だった。
でも以前見た夢とは違って、少し気持ち悪くはあったけど怖くはなくて。
その中で眠ってる夢。
『-変だよね。夢の中で眠ってる夢なんて』
彼は軽い笑い声を立てたが、楽しそうではなかった。
「-そうか」
そう返事をしながら、頭の中には疑問が浮かぶ。
なぜだ。
なぜ彼は夢に現れなくなった?
なぜ彼はあの夢を見なくなった?
夢の中で、また俺は歌う。
いない彼の代わりに歌う。
特に歌いたいというわけではない。
ただ、一人で語るのにも飽きてきたので歌うだけ。
その声を化物は聴いている。
『おまえも歌ってみる?』
尋ねてみると。
化物は一度だけ、ゆっくり瞬きをした。
が、声は聞こえない。
口がない(ように見える)から、喋れないのか?
そもそも、化物が言葉を操れるのだろうか?
そんな疑問を抱きながら、また俺は歌いはじめた。
いつ現れるか分からない人を想って。
『-貴方はいつもの夢を見ているの?』
ボイスチャット中、彼に尋ねられた。
「-うん。まぁ、大体」
『-一人?』
「-いや」
あの化物と一緒だよ。
少しの時間が経過した後。
『-へぇ』
妙な色を含んだ彼の声が聞こえた。
「-どうした?」
『-ん、いや、なんというか』
なんでそんな楽しそうなのかなと思って。
彼はそう言った。
「-……俺楽しそうだった?」
無自覚だっただけに、驚きを隠せない。
『-うん。……なんか楽しそうだよ』
彼の声が少し暗い。
裏切られたような気がするのだろうか?
それとも、俺が寂しがっていないように思えて拗ねているのだろうか?
……いや、それはないだろう。
妬いてるなんて思うほど、自意識過剰ではない、つもりだ。
「-そうか……な」
そうとしか返事ができなかった。
俺、楽しいのかな?
彼とのボイスチャットを終わらせた後、考えた。
確かに、彼が現れないのに、俺は生き生きしている気がする。
何も語らない化物と過ごして。
いつの間にか化物を『敵』だと認識できなくなっている。
実際、化物に嫌な感じがしないのだ。
そいつに歌を聞かせて。
独り言を呟いて。
そんなことを楽しいと思えている……?
彼がいないことに落胆しない日はなかった。
今日もいないだろうな、と予想はしていても。
その予想が当たれば、やっぱりと思いつつも落胆した。
でも、その心の隙間を埋めるようにいつもあの化物はいて。
本当に一人の時はなくて。
寂しいと思ったことはないかもしれない。
……俺にとって、あの化物はなんなんだろう?
またいつもの夢の中。
珍しく歌声が聞こえた。
俺の胸が激しく跳ねる。
でも前みたいに脅かさないように。
自分を制して奥の部屋へ進んだ。
俺の姿を見つけるなり、彼は凄く嬉しそうな顔をした。
ずっと待ってたと言わんばかりの表情。
……ずっと待ってたのは俺なんだけどな。
でも、なんか嬉しい。
彼の傍に腰を下ろすと。
歌おうか?
彼がそんな顔で俺を見つめてくる。
黒目がちな目が丸くなって。
なんだろう。
少し会わないうちに、随分可愛くなった気がする。
……こんなの女の子に思うことだって分かってるんだけど。
『歌って』
すると彼はにっこり笑って歌いはじめた。
あ、この歌。
プレハブでも歌ってくれた歌だ。
彼の姿を眺める。
すごく楽しそうで伸び伸びとしていて。
良かった。
俺は安心してその音に耳を傾けた。
でも、ふと途中で彼の声が詰まり、歌が止まった。
珍しいことだった。
彼も不思議に思ったようだ。
なぜ?
失敗した理由が分からない、と言った具合に首を傾げる。
それからちらっと俺の姿を覗って。
申し訳なさそうに肩を窄めた。
落ち込んでいる。
『そんなこともあるよ』
俺が慰めると、彼の頭がゆっくり縦に揺れた。
でも俯いたまま。
俺は彼を抱き寄せた。
やっぱり彼は大人しくそれに従う。
そしてその目を閉じた。
夢の中なのに温かい。
一瞬にして心が満たされていく。
溢れんばかりに感情が込み上げる。
心地が良い。
ゆっくり、彼から視線を外した。
すると目の前には。
化物がいた。
俺がいて。
穏やかに目と閉じて、俺に身を委ねる彼がいて。
そして化物がいる。
各々の距離はかなり近い状態だ。
どうしよう。
俺は焦った。
彼が目を開ければ、きっと驚いて脅えるに違いない。
だから、化物に声をかけたり、振り払うことはできない。
化物を見つめる。
化物は無機質な瞳を俺に向けた後、ぎろっと彼を睨んだ。
戦慄が走った。
俺は咄嗟に彼の頭を抱く手を、彼の目元にずらした。
彼の目を覆ったまま、声を潜める。
『ちょっと目を開けないで』
彼は大人しく従ってくれた。
頭をぎゅっと抱え込んでしまったので、恐らく音もあまり聞こえていないはずだ。
俺はまた化物を見つめる。
化物は彼を睨んでいた。
なんなんだろう……。
化物が何を考えているのか分からない。
なぜこの化物は彼にそんな目を向けるんだ。
……嫉妬?
いや、それこそおかしいだろう!
第一、化物が嫉妬って何だ⁉
……じゃ、なぜ、化物は彼を睨むんだ……。
困りに困り果てた俺は、そっと余った手を化物に伸ばした。
化物のぼやけた輪郭を撫でて。
『そんな顔すんなよ』
小さな声で宥めるように訴える。
すると化物は悲しげな瞳を浮かべ。
そのまま消えた。
起きた俺の胸中は複雑だった。
えっと……。
俺は彼が好きで。
久しぶりに会えた彼は俺との再会を喜んでくれて。
そんな姿に俺は喜んで。
抱き合っていたら、化物が凄い近距離で眺めてきて、彼を睨んで。
『化物→俺→(もしくは⇔)彼』の三角関係⁇
……頭が痛くなってきた。
ところが、ふと思い出した。
そもそも化物は、彼に歌を歌うよう強制していたのではなかったか?
それなら、歌わずに俺に抱かれている彼を睨んでもおかしくはないはずだ。
そういうことか……。
そう思うと、ひとまずはなんかほっとした気分になれた。
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