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7.天上の闇(3)

 しかし、次の日も彼はインしてこなかった。  珍しいな。  そう思ったが、なんか携帯で連絡するのは気が引けた。  彼は俺の気持ちを知ってくれているだろうし、彼も俺に悪い感情を持っていないことは知っている。  でも、その時はなんか連絡を取ってはいけないような気がした。  彼を束縛して、窮屈な思いをさせたくない。  そう思って、気が引けてしまったのだ。  そんな日々もある。  半ば無理やり、またそう片づけた。  夢の中。  傍にはいつもの化物が座っていて。  俺は歌う。  黒い靄の化物はそれをじっと聴いている。  彼がどこにいるのかは分からない。  でも、彼が暗い中で俺の声を聞いたと言うから。  俺は歌う。  呼びかけるように、訴えかけるように歌う。  彼の耳に届くことを願って。  そして、彼が目覚めて。  どこかから、現れるのを願って。  次の日も彼はチャットにインしてこなかった。  これで三日目。  何かあったのだろうか?  さすがに少し心配になってきた。  もし、チャットにインしない、できない理由が夢と関係のない、別のところにあるとしたら。  例えば、考えたくはないが、……事故とか病気とか……。  連絡をしてみようか?  そう思い携帯を手に取った。  が、いざ彼に繋がるボタンを押そうとすると。  指がじっと固まってしまう。  やっぱり俺を止める『何か』がある。  それが何なのか分からないが。  妙な胸騒ぎがすると言うか……。  それならばなおさら連絡を急がなくてはいけないだろうに。  俺はボタンを押すことができなかった。  悩んだ末、一日だけ、あと一日だけ待ってみようと考え、携帯をデスクに置いた。  四日目。  彼は今日もインしてこなかった。  もう無理だろう。  気が引ける、とか言ってる場合じゃない。  俺は携帯のボタンを押した。  コール音が響く。  一コール目が聞こえた瞬間。  あ、先にメールすれば良かった、と後悔した。  そしたらワンクッション置けたのに。  でも俺はそんな後悔を払い除け。  彼が出るのを待った。  無機質なコール音は十回ほど響き。  その後留守電に切り替わった。  彼が電話に出ないことによる不安が安堵に変わった。  これでワンクッション置ける。  俺は気分を改めて、彼にメールを送った。 『なんかあった?』  短い文章一つだけ。  でも次は返事が来るかどうかが不安になった。  来るかな、来るかな、来るかな……。  携帯を握り締めつつ時間を過ごす。  部屋の時計の音が妙に大きく聞こえた。  五分ほどが経過した。  俺の緊張していた体も少し解れてきていた。  そんな時。  俺の携帯が鳴った。  画面を開けば、案の定彼からだった。  俺は慌てて通話ボタンを押した。 「もしもし?」  少し焦った声になってしまった。  もう少し落ち着いた声で出たかったのに。  自分に苛立ちを覚える。  彼の声が聞こえない。  俺はもう一度だけ「もしもし」と繰り返した。  すると少しの時間が空いた後、彼の声が聞こえた。 『……もし、もし……』  小さな声だ。  元気がない。  それが気にかかったが、俺はできるだけ何でもないふりをして尋ねた。 「どうした? 忙しい?」  連絡が取れないから……。  そこまで言葉を繋げたが、その後何も浮かばなくなって黙ってしまった。  彼は黙っていた。  俺も黙っている。  無言の状態が続いた。  携帯を握る手に、じわっと汗が滲んだ気がした。 「もし、もし?」  不安に駆られながら、なんとかその一言をかける。  すると彼の詰まった声が聞こえた。 『っ、ごめん……っ』  必死に搾り出したような声。  破れるような錯覚を呼び起こす、空気の混じる音。  できれば、もう二度と聞きたくなかった音だ。 「い、や、別に。謝らなくても。ただ、気になっただけで――」  たじろぎながらも、明るく振舞ってみせる。  でも彼の声が俺の声を消した。 『違う……。違うんだ……っ』 「……どうした?」  俺は冷静な声で訊けたつもりだった。  でも、『そのせいか』、なのか、『それなのに』、なのか。  彼はまた黙ってしまった。  電話の向こうから、また少し湿った空気と、擦れるような空気の音が聞こえた。  その音が暫くの間続いた。  俺は何も言わず。  彼が何か言い出すのをずっと待った。  この時間はつらかった。  向こうから聞こえる細い空気の音を聞くのがつらかった。  でも彼が言葉を詰まらせる理由を知りたかったから、待ち続けた。  彼は何も言わなかった。  言えないのかもしれない。  そう思った俺は少しだけきっかけを与えてみることにした。 「何でもいいから、言ってみて」  また、彼の呼吸する音が聞こえた。  そしてその音が一瞬だけやむと、彼は言った。 『け、しちゃったんだ……。っ……』 「え!」  彼が『消した』というものが何なのか、すぐ理解できた。  それだけに、驚愕で瞬く間に体が固まった。 「なんで?」  責めるようには訊きたくなかった。  でも落ち着いて尋ねても、責めてるような音になってしまった気がした。  そんなつもりはなかったのに。  彼もそれは理解してくれていたんだと思う。  でも、彼はまた悲痛な音とともに『ごめん……っ』と謝った。  また少しの間、彼の呼吸音だけを聞いた。  俺からは何も言えなくて。  どうしようかと悩んでいると。  彼が少しずつ話しはじめた。 『編集が済んで、今日こそアップロードしてやろうと思って』  カーソルをアップロードボタンまで運ぶのに。  その瞬間、あの、黒い靄が、見えるんだ……。  ……その、黒い靄がパソコンの画面いっぱいに張り付いて。  一瞬にして体が動かなくなって……。  それを繰り返し続けて。  そしたらだんだん頭が真っ白になってきて……。  気づいたら、曲を消してた……っ。  後ろめたくって。  申し訳なくて。  どうしようって思い続けて。  そしたら、貴方に連絡が取れなくなって。 『……自分が、こんな情けない人間だと思わなかった……っ』  穏やかな彼が珍しい。  少しヒステリックな音だ。  そうして彼は自分をそう責めた後、また謝りはじめた。  どうしようか。  俺は内心溜め息をついた。  あまりこうは捉えたくないが。  もしかして少し彼に呆れているのだろうか?  彼を慰める言葉が思いつかない。  勿論、どんな言葉をかけたら良いのか、見当がつかないというのもある。  でもただ一言『泣かないで』と、そんな言葉一つ言ってやることもできずにいるなんて。  ……いや、それぐらいの言葉は想像ついた。  でもそれを思いついた瞬間、『それは違うだろ』って思う自分がいたんだ。  だからこそ、俺は彼に呆れてるのでは、と疑問に思ったんだ。  じゃ、なぜ俺は『それは違う』と思ったんだ?  何か言葉をかけなくては、と焦りながらも俺は考えた。 『謝ることないよ』 『頼むから泣かないで』 『俺にできることなら何でもするから』  ……どれも陳腐に感じた。 「ねえ」  不思議と俺の声は落ち着いていた。 『……何?』 「まだ伴奏の音源とか置いてる?」 『残ってるよ……』 「じゃ、また歌おう」  彼の喉が詰まる音がした。  消したものはまた歌えばいい。  別に同じ曲じゃなくてもいい。  あんたが歌いたいと思ったものでいい。  また、歌おう。  鼓舞するように誘った。  そうだ。  俺がおろおろしてても仕方がない。  だから一通りの慰めの言葉が陳腐に感じたんだ。  当たり前の話だが。  所詮俺たちは二人の人間だ。  たとえ感情や時間や、色々なものを共有ていたとしても。  別個の人間なんだ。  となると、いつか彼は自分の力で立ち上がるしかないわけで。  俺は彼が立てるように手を差し出すことはできても。  彼の肩をずっと担ぎ続けることはできない。  ……俺はずっと彼の肩を担いで、どこか自己満足していたのかもしれない。  陳腐になるわけだ。  これからは、もう彼を甘やかすことはしない。  彼を甘やかすことで、自分を甘やかすこともしない。  彼は小さな声で『うん』と呟き、言葉を続けた。 『もし、歌ったら……』  ……また聴いてくれる? 「はいぃ⁉」  彼の質問に思わず声を上げた。 「何言ってるんでしょうか⁉ 言っときますけど、俺あなたの大ファンなんですけど⁉」  聴かないはずないでしょう!  嫌だって言われても聴きますよ⁉  そしたらきっちりリストに登録するでしょうね!  勿論、MP3にも落とすでしょうし。  暫くはヘビーローテーションでしょうね‼  俺の感情そのままのぶちまけに、彼が笑い声を立てた。  初めて聞く彼の大きな笑い声。  きっと涙は笑いの涙に変わってる。  それぐらい笑ってる。  でも、「ぁ」、と小さく呟いて彼は静かになった。  それでもまだ小さな笑い声が零れ出す。  ……恐らく親に五月蝿いとか何とか小言を言われたな。  そう想像して、俺も小さな笑い声を立てた。  皮肉な話だが。  この時が一番感情的に交わり合えた気がした。

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