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7.天上の闇(4)
夢の中。
あの人の声が聞こえない。
今日もいないんだな。
そう思って屋敷に入ったのだが。
奥の部屋に赤い布が見えた。
今日はいるのか。
一瞬俺の心臓が跳ねたが、すぐ不安が押し寄せた。
彼が歌っていない。
じっと正座して、少し俯いて。
俺が来たことに気づかないのか。
それとも気づいているけど、顔が上げられないのか。
俺は彼の前にしゃがみ込んだ。
それでも彼は俯いていて。
目の色が曇っている。
『どうした? 今日は歌いたくない?』
そう声をかけると、彼は小さな吐息を漏らした。
首を縦に振ろうか、横に振ろうか迷っている様子だ。
つまりは、何かが彼を迷わせているため歌えない、ということなのだろう。
彼の目がずっと濁っている。
その表面に薄っすらと透明の雫が溜まって。
やっぱり現実とリンクしているんだな。
昨夜の一件と結びつけ、俺はそう考えた。
彼を抱き寄せた。
彼の頭がトン、と俺の胸にぶつかり。
その頭を抱えて撫でた。
これって、良くないかな……。
少し迷ってしまう。
現実では、もう彼を甘やかさないと決めたばかりなのに。
こんな彼を目の前にして。
何もしないのは、やっぱり違う気がして。
いや、これは夢だし構わないんじゃないだろうか?
ただでさえ、俺たちは簡単には会えないんだから。
夢の中でぐらい抱きしめて慰めてもいいはずだ。
……これって結果、自分を甘やかしてるかな?
そう思いながらも、自然と腕に力がこもった。
暫くそうした後、なんとなく手持ち無沙汰になった俺の口から音が零れた。
ふと頭を過ぎっただけの曲だ。
でも癖になりつつあったせいだろうか。
彼のいる前で。
俺の口は戸惑いを知らず、当たり前のように音を紡ぎはじめていた。
彼を抱いたままのため、そんな声は張れなかった。
が、音は安定しているし、まぁ満足できるレベルには歌えている。
彼の頭が俺の胸から離れた。
顔を上げ、じっと俺を見つめてくる。
『何?』
歌を止めて尋ねると。
彼は焦燥を露わにし、俺の顎に触れた。
『歌を止めないで』
そう言っている気がして。
俺はまた続きから歌いはじめた。
彼はじっと俺の顔を見ていた。
厳密に言うと、見ているのは俺の口元だ。
……少し恥ずかしい。
歌を聞かれていること。
顔を覗かれていること。
二つのことが重なって恥ずかしい。
化物相手なら平気だったのに。
やっぱり彼の前で歌うのには勇気がいる。
――ということに今更気づいたのだから、滑稽な話だ。
彼の口がゆっくり動きはじめた。
[―ァ……ア……? ……ァ……]
欠片の様な声が零れ落ちる。
その後彼は首を傾げ、丸い瞳でじっと俺の顔を見つめたかと思うと。
そっと俺の唇に触れてきた。
な、なになになになに……っ‼
完全にパニックになる俺をお構いなしで。
彼は何かを調べるように俺の口元を触り続ける。
そしてまた欠片の様な声を零した。
……もしかして………?
『この歌、教えてほしいの?』
その瞬間、ぱっと彼の顔が明るく輝いた。
軽やかに頭がコクコク、と縦に揺れる。
そういうことか!
俺は納得して、安堵を覚えた。
俺はその歌を歌ってみせた。
まずは一通り聴かせてみる。
彼はじっと黙って聴き。
その後、また欠片を零した。
まだメロディになっていなかった。
次は少しずつ歌って聴かせてみた。
フレーズごとに句切って、難しいところは二度歌ってみたりして。
するとまた彼の口からさっきよりは少し大きくなった欠片が零れた。
でもまだメロディにはなっていない。
何度もそれを続けた。
それにしても、結構難しい。
通して歌えば楽に歌える歌でも、フレーズを少しずつ、何度も歌うのは。
案の定、音を外してしまった。
恥ずかしい。
そんな思いで、ちらっと彼を覗うと。
彼はキラキラした瞳のまま、続きを待っていた。
俺の失敗なんてどうでもいいようだ。
早く続きを知りたくて仕方がない、といった姿。
何度も歌った。
彼が少しずつ歌を吸収していく。
だが、全部を教え終わる前に、夢から覚めてしまった。
でもなんか気分は晴れ晴れしていて。
幸せだった。
一日が終わり、また夢の中。
彼は奥の部屋で歌っていたが。
俺が来たことに気づくと嬉しそうに寄ってきて、また俺の口元に触れた。
『歌を教えて』
そういうことだ。
……………………。
『キスして』、ってことだったらいいのにな。
勘違いしたふりしてしちゃおうか。
……やめておこう。
なんか悲しくなりそうだ。
昨日歌った歌をまた最初から歌った。
彼はじっと耳を傾けている。
そして時々、小さな声を漏らした。
次はフレーズごとに歌って聴かせた。
途中、彼がよく分からなさそうな顔をした部分はより丁寧に歌った。
それでも音がよく分からない時。
[ァ……ア……⁇]
彼は音の欠片を零しながら、俺の口元に触れてきた。
俺の唇をじっと覗く。
顔と顔の距離はかなり近い。
……正直、彼のこの行動は結構苦手だ。
触れられた途端、頭の中にばっと光が飛び散って。
全面真っ白になってしまって。
何も考えられなくなるどころか、自分が何をしていたのかも分からなくなる。
そうだ。
今、俺はサリバン先生だ。
彼の思うようにさせて、とことん付き合うしかない。
ヘレン・ケラーが『water』を理解するまで。
そう思い込むと、だいぶ冷静になれた。
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