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8.天上の月(1)
一体どういうことなんだ?
俺は挨拶もそこそこに。
彼とのチャットを終え、頭を抱えた。
確かに、夢に「彼」は現れていた。
そして、俺は「彼」に歌を教えていた。
確かに、「彼」に歌を教えていたんだ。
なのに、なぜ彼はその夢を見ていないんだ。
何度目かになる言葉だが。
夢は一人で見るものだ。
だから、『同じ夢を見ていない』というのは何の不思議もない。
むしろそれが当たり前、というものなのだが。
でも俺たちの場合、少し勝手が違う。
確かに最近の俺たちは『同じ夢を見ている』と言い難い状況ではあるが。
『全く違う夢を見ている』とも言い切れない状況だ。
俺が化物に歌を歌い。
彼はどこかの暗闇で、俺の歌声を聞いていると言っていたから。
どこかで繋がった夢を見ていたのは確かなんだ。
俺はずっと「彼」を彼だと認識していた。
疑う余地もなかった。
確かにあれは彼だったのだから。
ほんの少し前までは、ちゃんとそれで辻褄が合っていたんだ。
夢の中で「彼」を押し倒した時。
途中で「彼」は砂塵の様に消えてしまって。
その直後に彼から抗議の電話が来た。
つまりそれは。
「彼」が彼だったからにほかならない。
だからずっと俺は「彼」が彼だと認識していた。
でも、今考えたら、おかしな点はあったんだ。
彼はずっと暗闇で寝ている夢を見ていると言っていたのに。
「彼」は夢に現れていたのだから。
なのに俺はそれを失念していた。
無意識に、勝手な思い込みをしていたんだ。
化物が出る日、彼は暗闇で眠っていて。
「彼」が現れた日は彼と夢を共有している。
そうだと決めつけていたんだ。
では。
彼は、いつから「彼」じゃなくなった……?
「彼」は、いつから彼じゃなくなった……?
言葉として、どちらが正しいのか分からないが。
今、俺が歌を教えている「彼」は何者なんだ?
この言葉は確実に正確な疑問だった。
夢の中。
奥の部屋に進む。
「彼」が奥の部屋にいた。
「彼」は俺を見つけると、嬉しそうに寄ってきて。
俺の唇に触れて。
ふわりと微笑んだ。
……かわいい……。
心は複雑なのに、そう思ってしまう。
情けない。
『おまえは何者なんだ?』
そんな気持ちでどこかしら警戒しているのに。
現実の彼と何も変わらない「彼」が微笑めば。
胸がとろっと蕩けてしまって。
『続きを教えようか?』
尋ねると、「彼」が嬉しそうに頷いたので。
俺は「彼」の傍で歌いはじめた。
夢の中で、何度も歌った歌。
それを、今夜もひたすら彼のために歌う。
じっと聞いて、また時折歌の欠片を零す「彼」。
そんな「彼」の後ろにふと、目が行った。
そこに、あの黒い靄がいた。
青い瞳が見えて。
その瞳が俺をじっと眺めた後。
「彼」を睨んだ。
まただ……っ!
戦慄が走った。
でもここで歌をやめてしまえば「彼」が訝しんで。
俺の視線の先を、後ろを見てしまうかもしれない。
俺は彼の背後に気を取られながらも歌った。
背に冷たいものが一筋流れた。
久しぶりに怖い、と思う夢だった。
ますます訳が分からなくなる。
あの化物はなんなんだ?
「彼」は誰なんだ?
「彼」と化物の関係はなんなんだ?
……あの化物が、あの人なのか……?
これは、初めて思い浮かんだ仮説ではない。
時々見えた白い腕。
色が違えど、彼と重なる瞳。
それらを見るたびに少し疑った。
やはり。
あの化物こそが、あの人なのだろうか?
いや、それはないだろう。
頭を左右に振る。
あの人はずっとあの化物に苦しめられていたじゃないか。
あの化物から逃れようとしたじゃないか。
それに、もしあの化物があの人であったとするならば。
それこそ「彼」の存在が分からなくなるんだ。
ということで、やっぱりその仮説は否定された。
夢の中、歌う「彼」を眺めていた。
一通り教えたが、まだ拙い歌で。
[~~~♪……、ァ……~~、……~~♪]
途切れ途切れだ。
それでも「彼」は嬉しそうに、音を紡ぐ。
歌が止まった。
「彼」が少し天井を仰いで、首を傾げる。
【続きは何だったかな?】
そういう意味なんだと思う。
歌ってみせようか。
そうしようとした時。
「彼」の顔がぱっと明るくなって。
また音を紡ぎはじめた。
「彼」が初めて通して歌えた。
まだまだ破れかぶれだけど。
『上手に歌えたね』
そう褒めると。
「彼」はにっこり笑って俺に擦り寄ってきた。
ああ、すごく可愛いよ……。
「彼」の肩を抱いて。
「彼」の頭を見下ろしながら、つい口元が緩む。
もう「彼」が誰なのか、なんてどうでもいい気がしてくる……。
きっとこれは彼だ。
なんかの理由で、現実の彼と夢の「彼」の連結が上手くいってないだけだ。
「彼」は彼だよ。
少なくとも、俺には彼だよ。
そんな心情に酔いながら、頭を上げると。
部屋の隅で、あの黒い化物がじっと俺たちを見ていた。
前はありえないぐらい近くに寄ってきて俺たちを眺めていたのに。
化物の瞳が揺らいだ。
その揺らいだ瞳がじっと俺を見ていた。
寂しそうな、悲しそうな目だ。
何で。
何でそんな顔をするんだ。
『言いたいことがあるなら、ちゃんと言えよ……っ』
突如込み上げた小さな苛立ちに、つい声を漏らしてしまった。
驚いて「彼」が顔を上げる。
『あ、ごめん……。なんでもない』
「彼」を驚かせたことに対する謝罪半分。
「彼」を後ろに振り向かせないようにする目的半分。
俺は化物を凝視したまま、「彼」の頭を強く抱いた。
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