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8.天上の月(3)
いつものようにバイトから帰り、俺はすぐPCを起動させた。
そしてひたすら彼が来るのを待った。
一時間ほど経過して、誰かがチャットにインする音が聞こえた。
彼だった。
すぐ彼にコールを送った。
『―……もしもし?』
「―もしもし」
ひとまず挨拶をする。
そしてすぐ本題に入った。
「―昨日夢見た?」
『―えっと、それが……』
彼がまごついた。
『―ごめん……』
なぜ謝る?
『―あの、昨日の夜ね』
俺、徹夜だったんだ。
『―昨日、俺インしなかったでしょ?』
他所に出た友達から久しぶりに連絡が来て。
そいつと朝まで呑んでたんだ。
「―そうだったんだ……」
『―うん』
連絡しておこうかなって思ったんだけど。
気づいた時にはもう結構な時間で。
もう寝てたら悪いなと思ったから。
『―……ごめん』
「―なんで謝るの?」
『―だって……』
多分、楽しみにしてたでしょ?
俺がどっかから出てくるんじゃないかって。
「―……うん」
彼の問いに、嘘も誤魔化しもできなかった。
「―でも、まぁ仕方ないでしょ。あんただって色々あるんだろうしさ」
『―うん……』
それでもまだ彼は『ごめん』と謝った。
彼の事情を知りひとまず納得したが。
俺はあることに気がついた。
彼が眠っていないのに、化物も「彼」も出てきていた。
ということは。
どちらも彼ではないのか?
彼が眠っていないのに、「彼ら」が出てくるということは。
彼と「彼ら」が同一のものでないからにほかならない、と思う。
ますます「彼ら」が分からなくなってきた。
少し、寝るのが怖いな。
そう思ったが、疲れて眠かったので寝てしまった。
夢の中。
薄暗い一軒家の一番奥の部屋で。
また「彼」は歌っていた。
畳の上に座り、楽しげに天井を眺めながら。
俺が教えた歌だった。
俺は「彼」の傍に腰を下ろした。
「彼」は以前と同じように歌をやめない。
ただひたすら澄んで綺麗な声が響いていた。
綺麗だな……。
ついうっとりとしてしまうが。
「彼」が何者なのか分からない恐怖。
「彼」が少しも俺を気に留めてくれない寂しさ。
二つの感情が重なって、より暗い気持ちになった。
『なぁ』
「彼」の歌は止まらない。
それでも俺は言葉を続ける。
『おまえは、誰なんだ?』
返事はない。
例えようのない寂しさが込み上げてきたので。
俺はそれ以上追及するのをやめた。
静かに「彼」の歌に耳を傾ける。
上手になった。
俺が教えたとおりではあるが、明らかに俺の歌とは違う。
柔らかで、優しくて、物憂げな声で。
俺が作り上げた世界とは全く違う世界が広がっていた。
Aメロ、Bメロを滑らかに歌い上げ。
サビも難なくこなし。
Cメロも丁寧に歌い上げて。
残すは最後のサビだけ。
恐らく歌い終えたら。
「彼」は俺に目を向けるはずだ。
「彼」の歌声に酔いしれて俺は待った。
歌う「彼」の姿にまた心が蕩かされる。
また何者か分からない「彼」に、柔らかな感情が芽生える。
こんなに愛しいのに。
なぜ「彼」は彼じゃないんだろうか……?
歌が終わる。
あと少しで、「彼」は完璧に歌い上げる。
もう少し、もう少し……。
そんな時。
それは非常にゆっくりとした、一瞬の出来事だった。
「彼」の後ろに黒い靄がいた。
黒い靄はざっと蠢いたかと思うと。
その形状は一気に乱れ。
その中から白い腕が二本現れた。
その腕は現れるや否や。
「彼」の細い首を捉え。
激しい力で締め上げた。
「彼」の口から引き攣るような小さな悲鳴が上がり。
それを皮切りとするかのように。
俺の手もその腕を掴もうと動いていた。
でも俺はその腕を掴むのを躊躇った。
白い二本の腕。
その腕の奥に。
白い着物を着た彼そっくりの顔があったから。
彼そっくりの顔は怒っていた。
いや、憎んでいる、と言った方が良いのかもしれない。
全てを呪い、全てを忌み、全てを妬み、全てを嫌う……。
この世のありとあらゆる負の感情が、白い着物の彼の顔いっぱいに広がっていた。
そんな彼の表情を見るのは初めてだった。
突如現れた白い着物の『彼』に驚愕しつつも、俺は気を取り直し『彼』の腕を掴んだ。
『おい、何してんだ。やめろよ……っ!』
白い腕の先には、意識を失いかける「彼」の姿があり。
その姿に意識を囚われつつも、俺は『彼』から目が離せなかった。
『彼』の手が離れた。
「彼」がそのまま畳の上に崩れる。
なのに、俺はすぐ「彼」を抱きかかえられなかった。
『彼』が、酷い形相で俺を見ていたから。
見開いた目いっぱいに涙を溜めて。
裏切られたかのような表情で。
酷く思いつめているようにも見えて。
悲しみ、哀しみ、痛み、嘆き……。
そんな感情全てを表して。
『彼』は揺らめいたかと思うと。
姿を消した。
『待てよ! 逃げるなよ!』
『逃げるな』と言ったのは、『彼』を責めるためではなかった。
あんな表情のまま姿を消した『彼』を放っておけなかったからだ。
あれが本当の彼だ。
何の根拠もなく、俺は確信していた。
部屋の中で、何度も彼を求めて叫んだ。
それでも足らず、庭に出て叫んだ。
でも彼は現れなかった。
息が上がり、喉の痛みを覚えたころ。
俺は仕方なく叫ぶのをやめた。
部屋に戻ると、「彼」が立ち上がっていた。
『大丈夫か?』
そう言って近づこうとしたが。
俺の足はそれ以上前に進まなかった。
やっとの状態で立っている「彼」がいた。
柳の枝の様にゆらゆらと揺れ、非常に危うい状態で。
青白い顔に浮かぶ二つの目。
死んだ魚の眼の様に濁って、何も映していない。
水の中で揺蕩うように、ゆらゆらゆらゆら揺れ続け。
次第に「彼」の輪郭が曖昧になっていった。
俺は意識を改め、「彼」の傍に寄った。
『おい、しっかりしろ!』
もうこれは彼じゃないと分かっているのに。
俺は「彼」を支えようと手を伸ばした。
しかし「彼」の姿は半分消えかかっていて。
ホログラムの様に、俺の手は「彼」をすり抜けた。
そうしているうちにも「彼」の輪郭はどんどん曖昧になり。
やがて無数の光の帯になって。
俺を呑み込んだ。
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