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第8話 初夏の三角点(1)
曇っていても降らないか、降ってもすぐに乾いてしまうようなぱらぱら雨。はっきりしない天気がしばらく続いて、夏休みが始まる少し前、梅雨は明ける。宇宙が透けて見えるような、黒味がかった青空がいつの間にか広がっていた。
終業式を翌週に控えた週末、教員採用試験会場として使われるので、学校は生徒立ち入り禁止。部活は中止。同様の理由で、三年生も模試はない。なので、僕と先輩は市営プールで落ち合うことにした。
もぐって追いかけっこをしている小学生がはしゃいだ声を上げる。ビート板につかまってやっと泳いでいる小さな子に付き添う親も目立つ。友だちとおしゃべりしながら水中を歩く女の人たちと、それとは対照的に一人で運動に励むおじさん――プールは、七月になったとたんに利用者が増えていた。
といっても人が多いのはプールの端に指定されたウォーキング・遊びコースと、それより少し内側の初心者向け二五メートルコースまでで、中級以上向けの五〇メートルコースはそれほどでもなかった。昼過ぎに待ち合わせた僕たちは、二人で一つのコースを独占し、ほとんど休みもせずに泳ぎ続けた。
二時間は経っていなかったと思う。僕が向こう側でターンしても、対岸の先輩は壁際に立ったまま泳ぎ出さなかった。戻ってきて水から頭を出す僕に、「そろそろ上がろうか」と声をかける先輩の声は、割れて二重に聞こえる。
「そうですね」
答えた自分の声も、カラオケで思い切りエコーをかけたようにひび割れている。耳栓をしていても水が耳に入り、長く泳いだときはこうなる。水から上がってしばらく経てば、元通りに聞こえるようになるけど。
先にプールのタラップを登る先輩の体が一瞬止まった。続く僕も、水から上がり切ったところで、普段の何倍にも感じられる体重に水の中って楽なんだなとつくづく思う。
その後も先輩は、プール横の大きなジャグジーに浸かったまま、なかなか動こうとしなかった。
「先輩、少し休んで帰りませんか?」
更衣室から出て、ロビーの前にいくつかある丸テーブルを指差す。小さめの白いテーブルの周りには三脚ずつ椅子が置かれ、休憩場所になっていた。
先輩はいつになく無言で、空いているテーブルにへたり込むように腰を下ろした。
僕はロビーの隅にある売店コーナーのアイスクリームケースから、バニラアイスを一つ取って会計した。続いて自販機コーナーに行き、カップの飲み物を二つ買った。
ホットのブラックコーヒーを先輩の前に、アイスクリームと氷の入ったコーヒー牛乳を自分の前に置いて座る。
「ありがとう。夏の星座だね」
財布から取り出した百円玉を僕に渡した先輩は、紙コップを掲げ、それから僕を見て少し笑った。
自販機の青い紙コップには、白い小さな丸と点線で星座が描かれていた。小さな子どもにもわかるように、青い夜空に白いひらがなで星座の名前もそえられている。
カップの上を天頂に見立てて、北の底から東へ斜めに昇り、南の底へと消える、薄白いグラデーションの太い線が天の川。
東のカップの縁に明るく輝く、こと座のベガ――織女星。
そこから右の天の川対岸に位置する、わし座のアルタイル――牽牛星。
ベガから少し左、天の川の中を優雅に泳ぐのがはくちょう座。しっぽに輝くデネブ。
この三つの明るい星を確か、夏の大三角と呼んだはずだ。
市営プールの手前には、銀色に輝くロケットのような科学館と、そのとなりには管制塔のような形の市立図書館が並んで建っている。小学校の校外学習で何度か来たことのある科学館には大きなプラネタリウムもあるから、ご近所のここにもこんな模様のカップが使われているのだろう。
「純生、アイス食べないの? 溶けるよ」
「あ、そうだった」
僕は慌ててバッグの中から、白いビニールの手さげ袋を取り出した。入っていたアルミホイルの包みを一つ、怪訝な顔の先輩に渡す。
「何これ」
尋ねる先輩に、ありがとうございましたと文庫本二冊も別に差し出す。
それから自分用にもう一つのアルミホイルを出して開くと、バターの香りが立ち上った。
それを見た先輩は、「ああ。これ読んで作ったんだ」と思い出したように言った。
――純生、もっと本読んだ方がいいよ。何か借りていきなさい。
そう言って先輩が渡してくれた一冊に、スコーンの作り方が詳しく載っていた。
そのエッセイの著者が作中で嘆いているように、スコーンといえばスナック菓子しか知らなかった僕は、どうしてもほんものを食べてみたくなった。
母に頼むと「めんどくさい」の一言で断られたので、自分で作ることにした。男のほうが力があるからスコーン作りには向いていると書いてあったし、材料も家にあるものでなんとかなった。
小さく切って凍らせておいたバターを指先ですり潰すように小麦粉と混ぜ合わせ、本に書いてあるとおりに作った。
「うまく焼きあがると、狼がむがーっと口をあけたみたいになるって書いてあって、どうしてもそれを見てみたくなったんです。ほらここ」
テーブルの上で本のそのページを開くと、口を大きく開いたはらぺこ顔の狼のイラストが描かれている。
「ほんとにイラストみたいな出来だね。俺もこの本は読んだけど、作ってみようとは思わなかったな……食べていい?」
「あ、アイス挟んでみてください。本で推奨されてるクロテッドクリームっていうの、スーパーでは売ってなかったんで」
アイスの紙ぶたをとると、僕は木の板のスプーンで六等分に分け、先輩のほうに押しやった。スコーンは三つずつある。
先輩は、二つに割った三角のスコーンに、少し柔らかくなったアイスを挟んでほおばる。
「うん、美味しい。このスコーン、チョコチップが入ってるね」
「先輩、うちにはそんなしゃれたものありません。板チョコを包丁で砕きました」
「そうか。でも売ってるやつより美味しいよ」
「え……スコーンて売ってるんですか?」
自分の分にアイスを乗せながら愕然とする。
売ってないと思ったからわざわざ作ったのに。
「うん。パン屋でも置いてるところはあるし、コーヒーショップとかコンビニにもあるけど」
「コンビニにもあるんですか……」
「でも、こっちのほうが美味しいって! 純生ががんばって作ったんだし!」
少し休んだら元気になったのか、先輩は帰りに僕をコンビニに誘った。
今まで気がつかなかったが、パン棚の横に、カップケーキやマドレーヌと一緒に、三角形のチョコチップスコーンが置かれている。だけど、その断面はぴったりくっついたままで、狼の牙のかたちは見えない。
「勝った!」
棚の前で思わずガッツポーズを取る僕の隣で、先輩が思わず吹き出す音が聞こえる。
気がつくと、先輩は僕の前で一番よく笑ってる人になっていた。
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