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第9話 初夏の三角点(2)
「松元は、もう進路決めてるの? 地元?」
プールからの帰り道、先輩が僕に尋ねた。歩道脇の掲示板に貼ってあった地元大学のオープンキャンパスのポスターを見て、行ってみようと思っている、という話をした後だった。
「農学部に行きたいんです。二年生でオープンキャンパスって早いかな」
「いいと思うよ。モチベーションも上がるだろうし、早く目標が決まれば対策を練る時間も増えるから」
相談したら担任の先生も同じようなことを言ってくれたけど、先輩にそう言われるとほっとした気分になった。
「農学部のどこ?」
「生物資源科です。醸造も勉強できることなんですけど、就職のことを考えると、ここらへんは酒造会社もたくさんあるし、そうじゃなくても、廃棄される焼酎カスを健康食品や家畜飼料や肥料として有効活用するとか、まだ産業として開拓できる分野があるんですよね。それって仕事があるってことでしょう?」
「詳しいね、松元」
「焼酎工場で働いてる伯父さんの受け売りなんですけどね」
僕はへへっと照れ笑いした。くわしい話を聞いてみたくなって田舎の伯父に電話をしてみたら、自分の仕事について聞かれるのが嬉しいのか、上機嫌で二時間も語ってくれた。晩酌中だったということもあるかもしれないが。
「先輩はもう志望校決まってるんですよね? やっぱり県外ですか?」
急に先輩は立ち止まって振り向いた。雷に似た大きな音を立てて、路面電車が通り過ぎていく。
「……迷ってる」
先輩は僕の顔をじっと見てそれだけ言うと、また歩き始めた。
その背中に、なんとなく話しかけづらい雰囲気を感じて、僕は戸惑う。
地雷を踏んでしまったのかもしれないと思ったが、後ろ姿に力がない。怒っているというよりは、元気がないみたいだ。さっきのコンビニでは笑っていたのに。
やがて道路沿いにある八幡さまの、こんもり繁った大きな木々が見えてきた。
今日みたいに先輩の家に寄らないときは、八幡さまを過ぎて三本目の筋で、僕たちは別れる。先輩は左に曲がって、僕はそのまま真っすぐ進む。
先輩のことだから、次に会ったときはちゃんといつも通りに戻ってるんだろうけど、なんだか今日は別れるまでに少しはHP を回復してほしかった。
「進路が決まったの、先輩のおかげです。ありがとうございます」
二歩先を歩く先輩の背中にお礼を言うと、「……なんで?」と一応反応してくれた。
「先輩が貸してくれた本、一冊、発酵学の先生が書いてたのがありましたよね。あれ、すっごく面白かった。発酵ってお酒作ったりもするでしょう? こういう方向があったか、って思いました。だから、僕の進路が決まったのは、先輩のおかげなんです」
小さいころ、父に肩車されるのが好きだった。
父の頭にしがみついて見回すと、見なれた風景も違うものに変わっている。空が近くなり、もっと遠く――世界の果てだって見渡せる気がした。
肩車なんてもう何年もしてもらってないけど、ときどき、ああいう気分になるときがある。
誰かがかけてくれた言葉が、してくれたことが、これまでは見えなかった地平線の少し向こう側を見せてくれる。その先にあるものを確信できるから、見えない彼方を目指して僕は進むことができる。
そんなふうに、導いてくれる誰か。
僕にとって、先輩はそういう人なんだと思う。
一年のとき、部活でタイムが伸び悩んでいた僕に、先輩はアドバイスしてくれた。フォームをちょっと修正しただけで、五秒も早くなって新人競技会にも出られた。
他校に化け物レベルのスイマーがいたから結果は出せなかったけど、「自己ベストだっただろ。がんばったね」って先輩は声をかけてくれた。
一緒に部活できなくなった今だって、先輩はいろんなことを教えてくれる。見せてくれる。地平線の少しだけ向こう側を。
感謝の気持ちを込めてもう一度、ありがとうございますと、先輩の後ろ姿に繰り返す。
別れるまでやっぱり僕らは無言だったけど、さよならを言って歩いていく先輩の背筋は、いつものようにすっきり伸びていた。
その夜、二階の自室で数学の宿題に悩んでいた僕のところに、先輩から電話があった。珍しい。市営プールに行くときはいつもメッセージなのに。
明日はヒマかと聞かれたので、プールのお誘いかと思った僕は「はい」と答える。
「じゃあ、デートしよう」
「先輩、先輩と後輩でデートとは言わないでしょう」
課題プリントを前に背伸びしながら僕が笑うと、「英語でdateは単に『待ち合わせ』の意味もあるよ。辞書をひいてごらん」と先輩が電話の向こうで言う。
机の上の本立てから英和辞典を抜いて、ページをめくると確かにそんな記述もある。一つ賢くなったかもしれない。
「どこに行くんですか?」という僕の質問に先輩は答えず、「明日、中央駅のスタバ前に十時半、来れる?」
「大丈夫ですけど、どこに行くんですか?」
数学のプリントの裏に場所と時間をメモする僕に、「それは行ってのお楽しみ」と先輩はまた笑った。
「私服で来てね。あと、着替え持ってきて、下着の」
水着が入らないところを見るとプールじゃなさそうだけど、石けん、タオルといった風呂道具もないところをみると、温泉でもないっぽい。
復唱しながらメモを追加していると、先輩がぼそっと呟くのが聞こえた。
「純生ってさんかくてんみたいなんだよね」
さんかくてん? 今日、プールで話していたのは「夏の大三角」だったと思うけど。それとも、新聞やニュースで見たりする男女共同参画なんとかと関係があるんだろうか?
「どういう意味ですか?」
「揺るぎないとういうか、確固たるっていうか、ね」
意味はわからないけど、なんとなくほめられてる感じがして嬉しかった。
通話を終え、開きっぱなしの窓の網戸をあける。夜の八時過ぎともなると昼の熱気もおさまって、冷えた空気が顔に当たって気持ちいい。外のほうが涼しいかもしれない。窓から顔を出して、空を見上げる。
周りの家の玄関や窓にはあかりがついていて明るく、天の川はぼんやりとしか見えない。デネブ、ベガ、アルタイルの夏の大三角も、それと知らなければ見落としそうだ。
ひょっとしてあれ「さんかくけい」って言ってたの聞き間違えたかな。
でも、厳密にいえば、星の位置は不変ではないし、超新星爆発したりしてまれに変わることもある。
「まあ、いいや。明日聞いてみよう」
どうせdateなんだから。
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