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第4話
耳元でこっそりそう言ったユーハンは、リキョウの肩を撫でてから、いそいそと机に戻った。教師は何か言いたそうだが、飲み込んで教本を開いた。
本当に、王子の部屋で書写をするのだ。予想外すぎて妙な冷静さが生まれた。用意された筆は、父が使っているものと似ていて、墨は型押しされている上等なものだ。紙も、ユーハンが使うのと同じものだから、気持ち良く字が書けそうだ。
「では、始めます」
明らかに庶民の子のリキョウを、教師は一瞬、紙の無駄だと言いたげな視線で見た。門外の子供は、十歳ごろまで学舎に通う場合が多いが、そのほとんどは家業を手伝うにはまだ幼いので、暇つぶしに学舎へ行っている。基本的な勘定と識字力があれば生活には足りるから、真剣に書写の授業に取り組む生徒はあまりいない。よって、教師は今から読み上げる教本の字を、庶民の子が書けると思っていないのだ。
だが、リキョウは違う。父のような役所の書記になりたくて、父に教わりながら毎日習字に励んでいる。より多くの漢字を知らなければ、大事な書簡の代筆や複写をする書記にはなれないからだ。
「先駆せしめ、奔属せしむ……」
上品な話し方の教師が教本を読み始めた瞬間、リキョウはこの詩が誰のもので、どんな字で書かれるのかを思い出した。自信をもって、教師の声に合わせて書いていけば、居心地の悪さを忘れてしまえた。
詩を書き終わり、顔を上げると、教師が自分の成果を覗き込んでいたことに気づいた。
「ふむ」
少なからず感心した様子の教師は、次にユーハンの机を見るも、王子の腕前に微妙な顔になるのを堪えていた。
「すごいじゃないか、リキョウ。まるで教本だ」
自分の出来はそっちのけで、ユーハンが身体を乗り出した。純粋な賛辞に照れてしまい、頬が赤らむ。
「この詩は何度か練習してるから」
「誰に習っているのだ」
「僕の父だよ。町の書記なんだ」
恩師であり大好きな父のことを話せる。誇らしくて、笑顔が弾けた。するとユーハンも歯を見せて笑う。
「リキョウ、あさっての書写会に出ろ。リキョウならシュインに勝てる」
「書写会? シュイン?」
突然の話についていけず、瞳を揺らすリキョウに、ユーハンはしたり顔で言う。
「廷臣の息子のシュインだ。書字の腕を競う書写会で、俺を負かす気でいるんだ。だが、リキョウのこの字ならシュインに勝てる」
シュインはよほどの好敵手らしいが、自分はユーハン以外の門内の人にとっては招かれざる客だ。どうして書写会に出られようか。
「貴族の子の書写会だろう? 僕は混じらないほうがいいと思う」
「成人していなければ誰でも参加できる。リキョウも出てくれ。歌も書字もシュインに負けてばかりで、悔しいんだ」
ユーハンはもう、リキョウも書写会に出ると決めてしまっている。こうなったらてこでも動かない性質なのは、この三か月でよくわかった。教本を閉じて終わり支度を始めている教師も、止めるのを諦めている。
「ユーハンが頑張って、勝てばいいじゃないか」
ちらりとユーハンの机を見ると、豪快な字が書かれていた。悪くはないが、書写の腕を競う会では、あまり点数がつきそうではない。
「俺では駄目だ」
「でも、僕だって勝てないかもしれないし……」
「シュインの字も知っているが、リキョウなら勝てる。そう思わないか」
ユーハンに訊かれ、教師は少々困った顔をした。
「確かに良い字ですが、書写会は廷臣閣下の主催ですから」
貴族主催の貴族のための会だという意味が込められていたが、ユーハンが諦めるわけもなかった。
「だからといってシュインが有利になってはおかしいだろう」
確かにそうだが、門外の子が突然参加するのもおかしくはないか。リキョウの不安をよそに、ユーハンはにっこりと笑う。
「あさってだ。用意は整えておく」
リキョウの勝利を確信しているらしいユーハンを、誰も止めることはできなかった。
「わかったよ」
場違いな存在になる不安はあるが、貴族の子の書字を見てみたいという好奇心もある。リキョウが頷くと、ユーハンは満足そうに頷き返した。
「さて、宝を見せよう」
二人が立ち上がったとき、同年代の子が三人、部屋の前まで歩いてきて、ユーハンと目が合うなり深く頭を下げた。
「ユーハン王子」
他の二人を従えているようにも見える、前に立った男子が挨拶をしようとすると、ユーハンはリキョウを背後に隠した。
「シュイン、どうした」
「羽根蹴りのお誘いにきました」
ユーハンとそう差のない身なりの男子は、今しがた話題にのぼったシュインだった。上品な顔立ちはつんとした印象を与え、話し方も硬く、高貴な身分の子なのがよくわかる。
「今日は忙しい。明日また誘ってくれ」
即座に断られ、シュインは何も言わずに頭を下げた。後ろの二人も同じように頭を下げる。
友達なのだろうに、頭を下げて挨拶をしているのは貴族だからだろうか。気になってシュインを見ると、シュインもこちらを見上げて目が合ってしまった。
しかし、ユーハンがリキョウを隠そうとしているのが明らかだからか、シュインは何も言わなかった。ただ、場違いな服装の庶民が王子の部屋で何をしているのかと、一瞬睨まれた気はした。
「失礼します」
シュインと仲間は素直に去っていった。三人の姿が見えなくなるのを確認してから、ユーハンはやっとリキョウを振り返る。
「隠し玉だから、隠しておかないとな」
ははっと笑ったユーハンは、リキョウの手首を掴んで、隣の間へ引いていく。
「シュインとは幼なじみだ。悪いやつではないが、堅苦しい性格なんだ」
「友達なのにお辞儀をするんだね」
気になったので言ってしまった。ユーハンはリキョウに、友達だから頭を下げるなと言っていたからだ。
「ああ、……そうだな。なにせ堅苦しいやつだから、最近やたらに仰々しい態度をとるようになった」
「成人が近づいているからじゃないのかい」
十二歳になる来年、ユーハンは正式に次代の王として世子の称号を授与される。成人して、将来王位に就くに値する男と認められるのだ。
「そうかもしれない。俺は友達とは友達でいたいのだけどな」
どこか寂しそうにそう言ったユーハンは、リキョウを棚の前に連れていった。初めて見た装飾棚は、棚自体に花や鳥の絵が描かれていて、間隔をあけて並べられている物はどれも、観賞するためだけのきれいなものばかりだった。
「この木彫りと、翡翠の象は祖父から受け継いだ。あそこに置いてある弓は、隣国の使者から受け取ったものだ」
どれも、初めて見る物ばかりだった。庶民の家に飾られるものといえば、祝いごとの装飾か花くらいだから、置物がいくつもあるのが不思議な気分にさせる。それでも、一つ一つユーハンが紹介するのを聞くのは楽しかった。
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