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第一章 やかましい同居人 お出かけ日和①

「おい。おい、いい加減起きろ」    涎を垂らしてだらしなく寝こけている千紘を小突いた。   「ンがっ……あ?」 「起きろ。朝飯食え」 「んァ……朝めし……?」    大きなあくびをしてぽやぽやした目を擦りながら、千紘は布団を這い出る。   「朝めしィ……?」 「パン焼いたから。そこ座れ」 「ん~……?」    昨日の元気はどこへやら。朝は弱いのだろうか。千紘は大人しくテーブルにつく。甘いのとしょっぱいのどっちがいいか尋ねても、要領を得ない返事しか返ってこない。    とりあえず、焼きたてのトーストにはバターをたっぷり塗った。それから、サラダと牛乳をつけて食卓に運ぶ。   「コレ……」    千紘はぽかんとしてテーブルの上を見つめる。   「コレ、が……朝メシ……」 「そうだ。冷めないうちに食べろ」 「ん……」    トーストを手に取り、恐る恐るかぶり付く。と、覚醒したように大きく目を見開いた。   「ゥっ……ッ……ンまァ~~~ッ!!」    口にものが入った状態で叫ぶものだから、涎と共に食べカスやら何やらが飛び散った。   「わっ、バカ、静かに食え」 「すッげ、すっげェ、これ……うっ……ぅうっ、うンまッ! あったかくってふわふわでェ、外はカリカリでジュワッとしててェ、なんかすんげーうめェッ!!」    千紘が興奮してテーブルの脚を蹴ったり体当たりを噛ましたりするから、俺は慌てて牛乳の入ったマグカップを避難させた。   「食いながら喋るな! 暴れるな!」 「なァな、これッ、このッ、上んやつなに!? パンにしみしみでェ、しょっぱ……や、甘……? しょっぱあまくてうンめェ汁ッ、これなに!?」 「バターのことか?」 「バタァー!? これがァ!? 初めて食ったぜェ、これがバターかァ……ぅわァ~~、噛めば噛むほどうンめー汁があふれてくるよォ~ッ!!」    ぽやぽやした寝惚け眼はどこへやら、すっかり覚醒状態だ。朝からうるさすぎる。昨日よりも元気かもしれない。   「なーなーなー! パンもっと食いてェ!!」 「ひとにものを頼む時は何て言うんだ?」 「なんつーの?」 「パン焼いてください、だ」 「へェ~?」 「真似して言ってみろ」 「え~……」 「言ってみろ。パン焼いてください」 「……パン、焼いて、クダサイ……?」 「よし、ちゃんと言えたな」    子育てでは褒めることも大切だと、以前どこかのお偉いさんが言っていた。だが具体的な褒め方が分からず、俺は適当に千紘の頭を撫でた。    俺も姉さんに頭を撫でてもらうのは嫌いじゃなかったし、千紘も悪い気はしないだろう。事実、千紘は照れたように頭に手を当てている。   「パン焼く間にサラダも食っとけ」    サラダボウルを千紘の前に滑らせると、千紘は露骨に苦い顔をした。   「まじーからヤダ!」 「食ったことあるのか」 「花はあめーけど、草はまじーからきれーだぜ。それにかてー! アンタ、あんなんが好きなんかよ?」 「俺も草は食わねぇ……」    花だの草だの、道端に生えている雑草でも取って食っていたのだろうか、と嫌な想像をする。あり得ない話ではないが、詳しく聞きたい話でもない。   「これは食える草だ。正確には野菜だ。体にいいし、うまい」 「げェ、マジで~……?」 「ドレッシングをかけると特にうまい。ドレッシングは油だ。うまいもんには大体油が入ってる。昨日のラーメンにも油が入ってたし、バターも油だ。で、野菜と油は一緒に食べるとうまい」    俺はサラダに軽くドレッシングをかけ、千紘の右手にフォークを握らせた。昨日ラーメン屋で借りたような子供用ではないが仕方ない。   「一口でもいいから食べてみろ」 「うげェ~~、ぜってーまじーってェ」    千紘はなかなか手をつけない。その間に俺は台所に立った。食パンをトースターに入れて、つまみを回す。焼き上がり、熱々のトーストに蜂蜜をたっぷりと塗る。牛乳を避難させていたことを思い出し、マグカップも持ってテーブルに戻る。    驚いたことに、千紘はがっつくようにサラダを掻き込んでいた。   「お……どうした。口に合ったか?」 「あ~~? んだよォ、これェ……」 「やっぱり好きじゃないか?」 「ちげーよ、なんか……最初は、まじーって思ったんだけどよォ、でも、なんか……」    千紘はフォークを握った右手を忙しなく動かす。   「よくわかんねーけど、なんかどんどん食えちまうんだ! んだこれェ、おかしーぜ!」    あんなに渋っていたのが嘘みたいに、ぺろりと平らげた。俺は内心胸を撫で下ろす。好き嫌いは少ない方が子育ては楽だろう。   「えらかったな」 「はァ? なにが?」 「残さず食べるのはいいことだ。パンも焼けたから食え」 「やーった! パン大好き!」    簡単な朝食だったが、千紘は気に入ったようだった。蜂蜜のトーストも「すっげーあめェ! あまうめェ!」と喜んで食っていた。    *    さて、朝食の後は何をするかといえば、朝の身支度だ。千紘は、綿毛のような髪の毛をふわふわさせたまま、テーブルに肘をついてテレビを見て、けらけら笑っている。俺は洗面所から千紘を呼んだ。   「また風呂?」 「風呂は夜に入るもんだ。じゃなくて、顔洗え。歯を磨け。髪梳かせ」 「ン~?」    千紘はぴんと来ていないらしく、首を傾げて突っ立っている。   「鏡をよく見てみろ。どんな顔だ」 「えェ~っとォ……イケメン!」    自信満々に答えたが不正解だ。   「違う。よく見ろ」    俺は、鏡に映る千紘の目元を指で示した。   「ほらここ、目やに」 「ヤニって何だァ? 煙草んこと?」 「違ぇ、ウンコのことだ!」    しん、と静まり返る。やらかしたな、と今更思うも後の祭りだ。普段なら絶対にこんなこと口走らないのに。   「ゥん……」 「……今のは忘れろ。正しくは」 「ッく、ふふッ、くふふふッ」    千紘は吹き出すように笑い出した。   「くくッ、うふッ、あははははっ!」    腹を抱えて笑い転げる。てっきりドン引かれたと思ったのに、笑いのツボに入ってしまったらしい。う○こが、千紘の笑いのツボに。男子小学生でももう少しマシだぞ。   「おい、そんなに笑うな……」 「だァってよォ~、くくっ、ぅふ、うふふッ、あはははは!」    駄目だ。笑いが止まりそうにない。   「とにかく! そんなもんが付いてるお前の顔はどうだ。イケメンか?」 「えへッ、えへへェ、オレのォ? オレの顔にィ……ぅくッ、うふ、ンははははっ!」    抑えようとするほど余計に変な笑い方になる。それがおもしろいのか何なのか、千紘は呼吸もまともにできないほど笑い転げる。笑いの永久機関だ。アホなのか。   「汚ぇと思うだろ! 顔にクソつけてたら!」    千紘は腹を捩って笑いながら、こくこくと首を振る。   「だから! 顔洗って汚れを落とせっつってんだ! 分かったか!」 「ンひ、ひ、はひィ……ぁは、はぁ、はーっ、はーっ」    ようやく落ち着いてきたらしい。千紘は腹を抱えて大きく深呼吸をしている。最後に「ふーっ」と長く息を吐いて、顔を上げた。笑いすぎて汗が滲んでいる。   「ウシ! じゃ、洗うぜ!」    気を引き締めて、パシャパシャと顔を濡らした。   「もっとよく洗え。口の周りも、食べカスと涎の痕で汚れてるぞ」 「あぅ~、つめて~」 「掛けてあるタオルで拭け」 「ンぅ~」    ごしごしと顔を拭き、タオルから顔を離す。   「どォーだ! イケメンか?!」    千紘は得意げにこちらを向いたが、俺の顔を見るなり、フグのように頬を膨らませて吹き出した。   「ぶふっ」 「お前なぁ……」 「ぅぐッ、ふくくッ、ぅははははっっ!」 「もう勝手にしろ……」    まだ笑いが収まっていなかった。一つの単語でよくもここまで笑えるものだと、その単語を発した己は棚に上げて、呆れるやら感心するやら。ただこのままでは埒が明かないので、千紘が落ち着くまで俺は洗濯物を干すことにした。    *   「なァ~、怒ったん?」    ベランダに出てからしばらくして、千紘が来た。   「なーなー、怒ったんかよ?」    言葉とは裏腹に、反省している様子はない。相変わらずへらへらしている。   「怒らせたと思ったのか」 「だってェ、なんも言わねーでこんなとこいるし」 「悪いことしたら、何て言うか分かるか?」 「そりゃあ~……知ってっけど、オレ悪くねーし」 「そうだな。俺も別に怒ってない」 「そーなん?!」 「お前がいつまでも笑ってるから困ってただけだ」 「ふゥ~~ん。そーなんだァ」    千紘が裸足のままでベランダに出ようとするから、俺は慌てて止める。   「バカ、足が汚れる。中で待ってろ。俺ももう終わるから」    千紘は、髪は自分でやったと言った。俺が昨晩してやったのを覚えていて、ブラシを使って梳かしたのだそうだ。だが梳かし方が甘かったのか寝癖が直っておらず、寝癖直しウォーターをスプレーして俺がもう一度整えてやった。   「でさァ~、オレぁ、ハミガキってあんましよォ~」 「ああ、ちょっと待て」    引き出しに仕舞ってあった新品の歯ブラシを下ろし、千紘の手に握らせる。フォークと同様、鷲掴みだ。   「赤がお前の。青が俺のだ。間違えるなよ」 「へーへー」    毛先を濡らすところから教える。歯磨き粉を絞り出してやると「あまそ~」などと喜んでいたが、いざ口に入れると思いっ切り吐き出した。カランカランと音を立て、歯ブラシが滑り落ちる。   「ンげェッ、んだこれっ、まっじィ!」    千紘は顔をくしゃくしゃに歪めて、ぺっぺっと唾を飛ばす。   「ぜんッぜんあまくねーじゃねーかァ! ダマされた! もうハミガキなんかしねェ!」 「……ミントは苦手だったか」 「みんとォ……?」 「その白いやつ。ミント味だ」 「みんと味ィ……」 「大人はみんなそれを使うが、お前はまだ子供だからな。無理しなくていいぞ。子供用のやつを使おうな。大人用はまだ早かったな」    努めて優しい口調で言い、落ちた歯ブラシを拾おうとすると、千紘に横から掻っ攫われた。さっきは物凄い形相で吐き出したそれを、千紘はもう一度口に突っ込む。   「うげッ、やっぱまじィ! ……けどォ、オレだって大人だぜ!」 「よし、いい子だ」    頭を撫でて褒め、そのまま鏡に顔を近付けさせた。   「ベロじゃなくて、歯を磨くんだ。奥までブラシを入れろ」 「ンぎィ~、アワアワがきもちわり~っ」 「泡は飲むなよ。体に毒だからな」 「ゥう~」 「口は閉じるな。ブラシが入らねぇだろ」    顎に軽く手を添えると、千紘は顔をしかめつつ口を開けた。目一杯開いた小さな口の中は泡でいっぱいだ。   「んげェ~、アワだらけだ~っ」 「ほらサボるな。下終わったら上だ。裏側も」 「ぐィ~~、オニィ~~」    文句を言いながら、そして、口の周りを色々な液体で汚しながらも、やっと最後の工程を迎える。ミント味をさっぱり掻き消したいのか、千紘は念入りに口を漱いだ。   「はァあ……ハチミツが消えちまった。もったいねー……」 「よくできたな。ちょっと見せてみろ」    千紘の顎を掴んで口を開かせ、ちゃんと磨けているかを確認する。食べカスは大体取れているが、長年かけて染み付いた汚れは簡単には落ちそうにない。近いうちに歯医者へ連れていこうと決めた。   「よし。じゃあ、出かけるか」 「へ、どこに?」 「買い物」

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