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第一章 やかましい同居人 お出かけ日和②
千紘はサイズの合わないトレーナーを着て、高層ビルが空にそびえる街を歩く。初めてなのだろうか、やたらときょろきょろして意味もなく立ち止まって、お上りさん丸出しだ。
「あんまり離れて歩くな。迷子になるだろ」
「お~」
「こら、立ち止まるな。ふらふらすんな!」
「お~?」
「横道に逸れるな、そっちは飲み屋街だ!」
いい加減イライラしてきて、俺は乱暴に千紘の手を掴んだ。
「ぅおッ!?」
「そっちじゃねぇって言ってんだろ。店はこっちだ」
「あ、手……」
千紘は、掴んだ手をじっと見る。それから、すぐそばを通り過ぎた女の子と母親の姿を目で追いかける。四歳くらいの女の子と、若くて身綺麗にしている母親が、手を繋いで歩いていた。
娘は、うんと高く腕を上げて母親の手に掴まり、「お人形買ってよ~」と甘える。母親は「この前ぬいぐるみ買ったでしょ」と優しく窘める。
千紘が何を思っているのか、俺には推し量ることしかできなかった。男を刺して死んだ母親のことを思っているのか、幸せだった幼少期を思い出しているのか、手に入らなかった幸福を羨んでいるのか。もしくは、何も考えていないのか。
親子を見つめる千紘の目は虚ろと言ってよく、その目に何を映しているのか定かでない。
「お人形、買ってやろうか」
茶化したつもりはなかったが、千紘はさっと顔を赤くして口を尖らすと、「いらねーよ!」と叫んだ。
*
まず必要なのは千紘の着替えだ。下着から靴下から、全てを一から揃えなくてはならない。それから食器。矯正用の箸と、落としても割れないようなプラスチックの皿やコップを揃える必要がある。
加えて、子供用のスプーンやフォーク……は、どうだろう。俺は一旦立ち止まる。そんなつもりはないが、子供扱いして馬鹿にしていると捉えられてしまうかもしれない。千紘の機嫌を損ねては元も子もない。
「おい、好きなの選べ」
そこにいると思って訊いたのに、返事がない。振り向けば、千紘の姿がなかった。早速迷子か、と思ったが、店外から千紘の騒ぐ声がする。何やら随分楽しそうだが、あいつが楽しそうな時はろくなことがない。
「あのバカ……」
俺は急いで駆け付けた。オープンしたてのドーナツショップの店頭に、はしゃぐ千紘の姿を見つける。そのすぐそばで、エプロンを着けた若い女性店員が、困惑の表情を浮かべて立ち尽くしていた。
「お前、何して……」
「お~、アンタも食ってみろよ。コレ、すんげ~うンめーぜ!」
千紘は、口の周りも口の中もドーナツのカスまみれにして笑った。既にどれだけ食べてしまったのか分からないが、それでもまだ足りないらしく、臆面もなく次々とドーナツに手を伸ばす。
「ッ、ば、バカ! やめろ!」
「はァ~? んでだよ。こいつが食っていいっつったんだぜ」
千紘は、困惑を超えて泣きそうになっている女性店員を指差してふんぞり返った。
「人に指を差すな。失礼だろ」
「はァ~~!? なんでッ」
「失礼だからだ」
俺は、これ以上の悪さをしないように千紘の手をしっかりと捕まえた。
「こいつって呼ぶのも駄目だ。店員さんって言え」
「テーインさんが、食っていいって言った!」
「全部食っていいって言われたか?」
「そりゃ~……」
上目遣いに空を眺めて、数秒ばかり思案する。
「言われてねーかもしんねー」
「そうだ。こういうのは一人一個って決まってるんだ」
「そんなん、どこに書いてあんだよ!」
「書いてないけどルールなんだ。お前はルールを破った。どうすればいいか分かるな?」
「わかっ……んねェ!」
千紘は俺の手を振り払おうとして失敗し、悔しげに顔を歪めた。こういう風に子供が駄々を捏ねる時、頭ごなしに叱らない方がいいのだろうか。
俺は、千紘の代わりに女性店員に頭を下げた。千紘は「はァ~??」と素っ頓狂な声を発する。店員もまた困惑した様子で、「えっえっ」と繰り返している。新人バイトなのかもしれない。妙な騒ぎに巻き込んで尚更申し訳なかった。
とりあえず「大丈夫なので」と言ってもらえたので、俺は千紘を連れて入店した。ショーケースに色とりどりのまぁるい輪っかがたくさん並んでいる。
「好きなの選べ」
「えッ!!」
「店の中では静かにしろ。ドーナツ、食いたかったんじゃないのか」
「エ、いーの……?」
「いらねぇなら俺が勝手に決める」
「え、ヤダヤダ待って、オレが選ぶ!」
トングを渡すとカチカチ鳴らしてうるさいのでやめさせる。
「なー、マジでいいの?」
「いいって言ってんだろ。早くしろ」
「え~? え~っとォ、じゃあ、コレ! あと、コレも! さっき食ってうまかったから!」
「おい、誰が二個もいいって言った」
「えッ! ダメなん?!」
「一個だけだ。よく考えて選べ」
「んだよォ、ケチィ~~」
千紘はギリギリと歯を食い縛り、前のめりになってドーナツを吟味する。
「こんなにあんのに、一個だけとか選べねェ~」
「さっき散々食ったんだろ」
「そ~だけどォ。だってうまかったんだもん」
「うまくてもいっぱいもらうのは駄目だ。他の人の分がなくなっちまうだろ」
「フーン」
「それにな、ああいうのはただ無料で配ってるんじゃなくて、商品を買ってもらうためにしてることなんだ。買う気もないのに試食するのは最低の行いだぞ」
「へーい」
「返事ははいだ」
「はァーい」
「じゃあ、どうしたらいいか分かるな?」
「ンぁ~?」
千紘がまだ分かっていないようなので、俺は、店頭で試食販売している店員を顎でしゃくって指し示した。
「……オレ、が、悪かった?」
「そうだ。そういう時どうするか分かるって今朝言ってたよな」
「……ゴメンナサイ」
「俺に謝ってどうすんだ」
「テーインさんに?」
「ああ。帰る時、謝れるか?」
「……ウン」
いじけた子供のように、頬を膨らませて唇を尖らせる。そんな千紘の頭を、俺は軽く撫でた。
「謝れるって約束するなら、もっとドーナツ買ってやる」
「マジ!?」
「マジだ」
やったァ! と叫びかけた千紘の口を、俺はすかさず押さえる。
「ただし静かにしろ。うるさくしたら買ってやらない」
「……ハイ」
合計いくつになったのか数えていなかったが、大きな箱にドーナツをぎっしり詰めてもらった。千紘は満足そうに箱を提げて、約束通り店頭の販売員に頭を下げた。
ごめんなさいと言えたことを褒めようとして、千紘に預けていた紙袋がないことに気付く。どこへやったか訊くと、「あっち」と指を差す。さっき食器を選んでいた店の前のベンチに、ぽつんと置いてあった。
「お前、何して……」
俺は慌てて駆け寄った。幸い盗まれてはいないようだった。ここが日本でよかった。
「んだよ~、別になくしたわけじゃねーんだからいーじゃん」
「そういう問題じゃねぇ……」
「まーまー。食おうぜ、ドーナッツ!」
千紘はどっかとベンチに腰を下ろし、早速箱を開ける。持ち帰るつもりだったのに、家まで待てないのか。
「うッひょ~~、すンげーあめーにおいがすんぜ~」
シュガーコーティングされた、光沢のあるまぁるい輪っか。千紘はそれを手に持って、くんくんと嗅いで、幸せそうに涎を垂らす。
「食べる前にいただきますだ」
「ふェ?」
「いただきます、って言ってから食え。その方がおいしく感じるぞ」
「へェ?! い、いただきますっ!」
勢いよく言って、ばくっと齧り付く。
「ゥうぅ……」
「あんまり騒ぐなよ。外だからな」
「ンぐ……」
ごくん、と飲み込んでから、「すげェうめェ」と言ってにやっと笑った。
「よかったな」
「アンタも食えよ。これとかうめーよ?」
千紘が渡してくれたドーナツは、粉砂糖がまぶしてあって見るからに甘そうだ。齧り付こうとすると、「あれッ?」という千紘の声に止められる。
「いただきますは? しねーの?」
「……いただきます」
子供に躾けられてちゃ世話ないな。これからは今まで以上に礼儀や作法を意識していかなくては。育児では自らが良い手本になるべきだと、以前どこかのお偉いさんが言っていたとかいないとか。
「うめーだろ!」
「……残りはお前にやる」
「なんでェ!? まずかったんか?!」
「まずいとか大声で言うな」
砂糖がまぶしてあるだけじゃなく、中にはたっぷりの生クリームが詰まっていた。俺には少々甘すぎる。子供には好き嫌いするなと言っておきながら、自分は好き嫌いをしている。世の親達は、どうやってこの矛盾を乗り越えているのだろう。
ショッピングはまだまだ続く。必要なものはたくさんある。2Bの鉛筆1ダース、消しゴム、筆箱、鉛筆削り、小学生用の国語辞典、子供向けの童話集、などなど。思いのほか本が多くなり、帰りは荷物が重くなった。
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