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第一章 やかましい同居人 日常①

 一か月もすれば新しい生活が板に付いてくる。朝起きて洗濯機を回し、朝食の準備と夕食の仕込みを同時に行い、千紘を起こして朝食を食べ、洗濯物を干して身支度を整え、一緒に家を出る。   「いってきます」 「いってきまァ~す」 「おい、踵踏むな」 「へいへい」 「はいは一回だ」    サイズの合わない小さな靴を踵を潰して履いていた千紘は、新しい靴を買い与えてもなかなかその癖が抜けない。靴が傷むと注意しても、歩きにくいと文句を言う。    千紘を車に乗せ、学校に送り届ける。所謂普通の学校ではなく、個々のレベルに合わせて個人指導をしてくれるフリースクールに通わせている。   「ほんじゃ、いってきまァ~す」 「いってらっしゃ――おい、弁当忘れてる」 「お~、わりーわりー」 「だからカバンに仕舞えっていつも言ってるだろ」 「アンタが気付いてくれんだからいーじゃん」 「いつまでも甘えるな。早く行け」 「へーへー」 「車に気を付けろよ」 「あーい」 「ちゃんと勉強しろよ」 「わ~ってるよ」    千紘を見送って、俺も職場へ向かう。    *    昼休みは社内の食堂で過ごす。千紘も今頃学校で弁当を食べているのだろう。ミートボールを入れたから喜んでいるに違いない。    そんなことを考えながら、千紘に持たせたのと同じ弁当を広げていると、シンプルなパンツスーツに身を包んだ女性が颯爽と現れて、向かいの席に座った。   「瀬川くんは今日も一人でお弁当かい?」 「美山(みやま)先輩」    彼女は同じ部署の先輩だ。入社したての頃から世話になっている。   「一人で弁当はおかしいですか」 「誰もそんなこと言ってないでしょ~。被害妄想っていうんだぞ、そういうの」 「先輩は社食ですか」 「そーですよ。誰かさんみたいに、お弁当作ってくれる人いないもん」 「はぁ」 「何だいその態度は。瀬川くんのそれ、愛妻弁当なんでしょ?」 「アイ、サイ……?」    あまりにも意外すぎる指摘に咄嗟に漢字が思い浮かばず、たまに千紘がするのと同じような片言になってしまった。   「……俺独身ですけど」 「ン~、そういう意味じゃなくて」 「彼女もいないし」 「あれっ、そうなの? じゃあ、そのお弁当作ってるのって……」    美山先輩はしげしげと俺の弁当を見、思案するように顎に手を添えた。   「もしかして、自分で作ってるんだ?」 「そうですよ」 「どうして急に」 「そりゃまぁ……」    今までは食堂の定食を食べることが多かった。誘われれば外へランチに行くこともあったし、近所のパン屋でサンドイッチを買ってくることもあった。だが、千紘が来てから全てが変わった。   「ついでです」 「ついでって……あ、もしかして、瀬川くんが誰かにお弁当作ってあげてるの?」 「まぁ、そうですね」 「ふーん、尽くすタイプなんだ」 「やめてくださいよ、あいつは別に――」    口が滑った。こうなってはもはや誰にも美山先輩の好奇心は止められない。わくわくした目でこちらを見つめてくる。   「あいつ?」 「……親戚の子を預かってるんです」 「あ~~、だから最近付き合い悪いんだ」 「早く帰って夕飯の支度しなきゃいけないんで」 「やっぱり尽くすタイプじゃん」 「別に普通ですよ」 「ん~、じゃあさ、今度その子も連れてごはん行こうよ」    先輩は名案とばかりに膝を打つ。   「なんでそうなるんですか」 「たまの息抜きは必要だよ~? アタシもその子に会ってみたいしさ」 「会ってもろくなことないと思いますけど」 「ちなみに男の子? 女の子?」 「……男、ですね」 「そーなんだ。騒がしそうだね」 「実際騒がしいったらないですよ……」    *    定時で仕事を切り上げて、家に帰る。誰かの待つ明るい家に帰ることにも慣れてきた。千紘はリビングでテレビを見ている。    平日の夕方、他におもしろい番組がやっていないせいか、千紘は好んで教育テレビを見る。おかげで寿限無を暗唱できるようになった。教育テレビ様様だ。   「ただいま」    俺が言っても、千紘はテレビに夢中だ。   「おい、ただいま!」 「ンぁ~? お~、おけーり」    千紘は、リビングからちらっと頭を覗かせるが、すぐにテレビへ視線を戻す。廊下にはカバンが放り投げてあり、靴下が脱ぎ散らかしてある。   「こら、靴下脱ぎっ放しにするなっていつも言ってるだろ。洗濯物は洗濯機に入れろ!」 「な~、メシなに?」 「ひとの話を聞け」 「もォ~、腹ァ減って動けねー。メシメシメシぃ~~!」 「……はぁ。分かったから、そう騒ぐな」    テーブルの上にはチョコレートの包み紙が散乱している。集めてゴミ箱へ捨てた。   「ゴミはゴミ箱にって、これもいつも言ってんだろ」 「はァ~い」 「返事だけはいいくせに……」    ぼやいていても仕方がない。俺はささっと洗濯物を取り込んで、とっととエプロンを掛けた。    見たい番組が終わったらしい千紘は、のそのそとキッチンにやってきて戸棚を漁る。菓子を探しているのは分かっているが、残念ながらそこにはない。おやつは毎日用意しているものの、あればあるだけ食べてしまうので、普段は見つからない場所に隠してある。   「飯の前に菓子を食うな」 「だってよォ~」 「もうできるから、その前に手洗ってこい」 「ちぇー」 「返事は」 「は~い」 「ちゃんと石鹸で洗えよ」    出来上がった料理を食卓に運ぶ。千紘はスプーンとフォークを両手に持って待機している。行儀が悪いと指摘すると膝の上に仕舞うが、テーブルの下でうずうずしているのは分かっている。   「よし。いただきます」 「いただきまッす!」    言うが早いか、スプーンをご飯に突き刺した。ばくばくと凄まじい勢いで掻き込んでいく。味噌汁から食べろと何度か教えているが、身に付く気配は全くない。せっかく買った矯正箸も、一応食卓に持ってはきているが、活躍の機会に恵まれない。   「おかわり!」    差し出されたお椀を受け取りかけて拒否すると、千紘は「あっ」という顔をする。   「おかわりください!」 「どれくらい」 「いっぱい!」    千紘が来てからというもの、米の消費スピードが尋常じゃない。朝はパンだが弁当には米を詰めているし、夜もこの有様だ。二杯目も一杯目と同じく山盛りによそうが、これもぺろりと平らげてしまう。育ち盛り恐るべし。   「おかずもちゃんと食えよ」 「わーってるよ。で、これなに?」 「鮭のムニエル」 「サケ~? 魚のか! こないだ図鑑で見たぜ! 卵はイクラっつって、すんげーうめーらしい!」 「小さい骨があるかもしれないから、気を付けて食え」    千紘は、鮭にフォークを突き刺して丸ごと持ち上げて、頭からかぶり付いた。あまりにも野生的すぎる。外でこんな食べ方をされたら堪らない。   「ぅ……ンまァ~~ッ!」    口の中のものを飛ばしながら喋る癖も直らない。   「これ! これバターだろ!? オレにゃあわかんぜ! 毎朝食ってっしよォ~! バターサイコー! あッ、もしかしてェ、バターで焼くことをむにえるっつーんか?」 「さぁ、知らん」 「アンタにも知んねーことあんのかよ! まァなんでもいっか! これ気に入ったぜ!」 「よかったな」    行儀は悪いし、食事中ずっとうるさいし、箸の持ち方も覚えないけれど、俺の拙い料理で大袈裟すぎるくらい喜んでくれる。毎食必ず完食してくれる。それだけで、まぁ何でもいいか! という気分になってくる。いや、全然よくないのだけど。    不意に、千紘が静かになった。頬にものを詰めたまま、神妙な面持ちで唸っている。   「どうした」 「……にゃんかァ~、変なんがまじってるゥ~」 「小骨だな。取れないのか?」 「取れにゃいぃ~~」 「そんなにいっぱいあんのか。だから気を付けて食えって……」    いや、悪いのは俺か。小骨は全部抜いたつもりだったが、なかなかうまくいかないものだ。   「じゃあ、ほら、ここにぺってしろ」    急いで空にした小鉢を千紘の口元へ運ぶ。   「う゛ェ……」    どろり、と。十分に咀嚼されて液状になった元食物が、千紘の短い舌を伝って零れ落ちる。見ていて気持ちのいいものではないが、仕方ない。   「ぷはァ~っ! 死ぬかと思った!」 「なわけあるか」 「なァな、骨取ってェ。そしたらもっかい食うからよ」 「バカ、一回吐き出したもんを食うやつがあるか」 「えッ、でもォ、もったいねーし」 「もったいなくねぇ!」    駄々を捏ねられる前に、キッチンの生ゴミ入れに捨てた。   「あーあー」 「残念そうにするな。これに懲りたら、一口ずつよく噛んで食べろ」 「へいへい」    千紘は今夜も、あの吐き出した一口以外は、付け合わせの野菜まできっちり全て平らげた。

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