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第一章 やかましい同居人 日常②

 風呂を沸かす間に洗濯物を畳む。千紘はお笑い番組を見てげらげら笑っている。俺はニュースが見たいのに、なぜかいつもリモコンを奪われる。風呂が沸いたら先に千紘を入らせ、その隙に軽く掃除をする。ようやくリモコンの主導権が回ってくる。   「出たぜ~」    千紘はわりと長風呂で、そのせいでのぼせているのかもしれないが、パンツ一枚でリビングまでやってくる。全裸でないだけ進歩である。   「裸でうろうろするな」 「ハダカじゃあねーぜ! パンツ履いてんもーん」    ほらほら、とトランクスの裾をスカートのように摘まみ上げる。   「そういうのを屁理屈っていうんだ。それになんだ、頭まだ濡れてるじゃねぇか。ちゃんと乾かせって、いつも言ってるだろ」 「だってよォ~」    またも屁理屈を捏ねようとする千紘を洗面所に連れていって、ドライヤーをかけてやる。やり方は教えたはずだが、どうしてこういつまでも下手なのだろう。時間ばかりかかって、全然乾かせていない。   「せっかく綺麗な髪なんだから、大事にしないともったいないぞ」 「キレーな髪?」    色素が薄くて、タンポポの綿毛みたいにふわふわで、見た目よりもずっと柔らかくて、触り心地のいい髪。   「手入れしないと、将来ハゲるかもな」 「ハゲ!? ハゲってあの? オレ大人んなったらハゲんの!? そんなんヤダァ~~!」 「ふっ。さぁ、どうだかな」 「そーいうアンタはどーなんだよ! 一緒にハゲんなら怖くねー!」 「俺は……」    父親はフサフサだったが、祖父はどうだったのだろう。記憶にない。   「やっぱウソ! アンタと一緒でもやっぱハゲはヤダ!」 「先のことなんか心配してもしょうがねぇだろ。こういうのは大体遺伝で決まって……」    だが、父親が誰かも分からないのでは、何の指標もないのと同じだ。言わなくていいことを言ってしまった。   「イーデン?」 「何でもない。ほら、できたぞ。明日こそ自分でやれよ」 「ぁ~い」    千紘の髪を整えてやって、俺もようやく風呂に入れる。服を脱いで、浴室のドアを開けると、中は大惨事であった。   「おいっ!!」    脱衣所から顔だけ出し、リビングに向かって怒鳴る。   「泡だらけにすんなっていっつも言ってんだろ!!」 「あ~?」    千紘も、リビングから顔だけ覗かせる。   「風呂を泡だらけにすんなって言ってんだ!!」 「お~」 「天井をびしょ濡れにすんのもやめろ!! わざとか!?」 「わざとじゃね~よォ」 「だったらもっと気ィ付けろ!! むやみにシャワーをぶっぱなすな!!」 「へェ~い」    千紘の興味はテレビにあるようだ。反省の色が全く見えない。俺の怒りは全く伝わっていないらしい。実に腹立たしい。服を脱ぐ前だったら、向こうまで走っていってゲンコツをくれてやったものを。    こんなことが日常茶飯事で、ゆっくり風呂にも入れない。慌ただしく入浴を終え、風呂掃除まで済ませると、千紘は先週借りたビデオを見ていた。子供向けのアニメ映画だ。が、俺は容赦なくテレビの電源を切る。   「あ~~ッ!? 今いーとこ!」 「うるさい。勉強の時間だ」    千紘は露骨に嫌な顔をする。鼻の頭に皺を刻み、うげェ~とベロを出す。   「ヤダ! ビデオ見るんだ!」 「うるせぇ、散々見ただろ」    逃げを打つ千紘の首根っこをふん捕まえて座らせる。   「こらっ、暴れんな」 「ヤダヤダやだァ~~! べんきょーならガッコーでいっぱいしたぜ! せんせーもほめてくれたもん!」 「夜中に騒ぐな! 色々疑われるだろ」 「ヤダったらやだッ! 鉛筆なんか持ちたくねェ!」    千紘は、いまだ鉛筆の持ち方がおぼつかず、小学一年生が使うような矯正ホルダーを使っている。慣れない持ち方を強制されるのがストレスなのだろう。だからスプーンやフォークもいまだに鷲掴みだ。   「じゃあ、今日と明日勉強がんばったら、金曜は唐揚げ作ってやる。唐揚げだぞ、好きだろ?」 「から、あげ……」    食べ物に釣られて、千紘は簡単に大人しくなる。   「あの、カリッカリの、うンめェ肉の塊を……?」 「ああ、食い切れないくらい山盛り揚げてやる」 「ま、マヨネーズ、かけていい?」 「いいぞ、どんどんかけろ。ただし、お前が勉強をがんばったらな」 「あ、ゥ……」    千紘は、涎が垂れるのを我慢しながら、テーブルに並べた問題集とノートを交互に見て、矯正ホルダーを填めた鉛筆をおずおずと握りしめた。   「か、からあげのためだぜ……」 「よし。その意気だ」    一時間ほど、千紘の勉強を見てやる。得意な算数の計算問題を最初に済ませ、苦手な漢字の書き取りは後回しにする。これが一番、千紘のやる気が長く続く方法だった。    千紘のあくびが目立ち始めたら、そろそろ寝る時間だ。就寝前に歯を磨かせるが、洗面所へ走っていった千紘は、赤い歯ブラシを銜えてリビングに戻ってきて、俺の膝に頭をのせた。   「何だよ」 「しあげはおか~ぁさ~ん、って、てれびでやってたぜ」 「俺はお前の母ちゃんか」    教育テレビの影響力に感心しつつ、俺は千紘の口を覗き込む。緑色の筋が、おそらく夕食に出した野菜のものだと思うが、歯の隙間に挟まっている。   「お前これ……全然磨けてねぇぞ。仕上げってレベルじゃねぇ」 「えェ~、ちゃんとやったぜ~?」 「嘘つくな。初めての時の方ができてたぞ」 「らってェ~、あんたがやってくれっからぁ~」 「いつまでも甘えるな。ったく……」    顎を押さえて大きく口を開かせれば、喉ちんこの奥まではっきり明るく照らし出される。歯並びはあまりよくないが、左右の八重歯は犬みたいで愛嬌がある。犬にしては躾が行き届いていないが。   「……にゃ~」 「おい、喋るな」 「こづかいほしー」 「なんだ、急に。ほしいものあるなら買ってやる。ものによるけどな」 「じゅーす、じぶんで買いてぇ」 「水筒持ってってるだろ」 「じゅーすがいー」 「甘いもんは体に悪いぞ。それにお前、お金の管理できるのか? どうせ無駄遣いするだろ」 「しにゃい!」 「あっ、こら」    千紘は、ばくん、と口を閉じて頬を膨らませた。無言の抵抗というやつか。瞳で訴えてきやがる。これでは歯磨きの続きができない。   「はぁ……分かった。ジュース代だけだからな」 「やった!」 「うわっ、唾を飛ばすな」    十時過ぎには、千紘は布団の中だ。寝かし付けに読み聞かせをしてやる。俺が話を選ぶこともあるし、千紘からリクエストされることもある。最近はオオカミと七匹の子ヤギにハマっているらしく、よくねだられる。    本の読み聞かせなんて、したことがなかった。する予定もなかった。大昔に母が読んでくれた、あの優しい声と抑揚を思い出し、恥を忍んで読んでいる。    オオカミのしわがれ声と、子ヤギの甲高い声と、母ヤギの優しい声とを演じ分けないと、もっとちゃんとやれと千紘が怒るのだ。   「オオカミは井戸に落ち、溺れ死んでしまいましたとさ。おしまい」 「……子ヤギはいーよなぁ。母ちゃんが助けに来てくれてよぉ……」    微睡みの中で、千紘は溜め息を吐く。   「もう一冊、何か読むか?」 「ん~、たのしーやつがいい」 「楽しいったって……じゃあ、裸の王様」 「お~、ふふ、いいぜ」    千紘に読ませるために買った本なのに、俺ばかりが読んでいる気がする。今後に期待するしかない。    話の途中で、千紘は寝息を立て始めた。涎を垂らさないように口を閉じてやると、もぐもぐと口を動かした。    さて、千紘が眠ってからがようやく俺の自由時間だ。コーヒーを飲みながら本を読む。今はミステリー小説を読んでいる。栞を挟んだ昨晩の続きから読み始める。    コーヒーを一口。ページを捲り、また一口。秒針が時を刻む音が響く。それから、喉の鳴る音と、紙の擦れる音。これだけ。さっきまでの騒がしさが嘘のよう。世界に一人っきりみたいな、そんな感覚。    日付の変わった辺りで本を閉じ、寝室へ戻る。千紘はいびきを掻いて眠っている。布団の外へ放り出された手足を温かい場所へと戻してやって、俺もベッドに入ろうと掛布団を捲る。と――    ビヨヨ~~ン! と、間抜けな効果音と共にマットレスのスプリングが飛び出した。   「なっ……」    突然のことに目を捲るばかりで声が出ない。どうしてマットレスのはらわたが引き裂かれてスプリングが飛び出すんだ。一体誰がこんな惨いことを……。なんて、わざわざ考えるまでもなく、犯人は一人しかいない。   「おいっ!!」    耳を引っ掴んで怒鳴り付けると、千紘はわっと目を覚ました。   「んァ!? なン、なにぃ、もーあさァ!?」 「お前っ、これっ! またベッドで跳ねただろっ!!」 「あ~~??」    千紘は、状況が飲み込めないらしく目を瞬かせるばかり。   「これで何回目だ!? ベッドで跳ねんなって何回教えりゃ分かんだ、てめーは!!」    ぐいいっと容赦なく耳を引っ張る。千紘もいよいよ覚醒し、自分の罪の重さを理解したようで、「ごめんなさい!」とほとんど反射的に叫んだ。   「ごめんで済んだら警察はいらねぇんだよ!」 「なんッ、なんだよソレぇ、ことわざァ? ちょ、ホント、ごめんってェ、わざとじゃねーんだってばぁ」 「わざとだったら張り倒してるところだ!」 「ぁ、あやまるからァ、放してくれよぉ! オレん耳ちぎれちゃうよォ~~!」 「――クソっ!」    実は、千紘が来てから既に一度買い替えているのだ。一か月も経たずお役御免になるマットレスの気持ちと、俺の財布の気持ちを考えろと言いたい。   「小遣いはしばらくなしだからな」 「はァ~~?! んでだよ!」 「お前のジュースになるはずだった金で新しいマットレスを買うんだよ! 当たり前だろうが!」 「はァァぁあ!? んだそれェ! くれるっつったじゃん! ウソツキ! ウソつきィ~ッ!」    千紘は、耳を押さえながらもぎゃんぎゃん噛み付く。   「喚いても意味ねぇからな。俺の決定には黙って従え」 「オーボーだ! コッカのイヌだぁぁッ!」 「てめ、妙な言葉ばっか覚えてんじゃねぇ!」    深夜だというのも忘れて大騒ぎしてしまった。さっきまでの静寂が嘘のようだ。    その晩、飛び出たスプリングを避けて無理な姿勢で寝たので、翌日は腰も背中も痛かった。

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