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第一章 やかましい同居人 休日

 千紘の新しい家族になるというその男は、煙草のにおいがした。煙草は嫌いだ。臭いし熱いし痛いから。    だが、男は千紘の前では吸わなかった。千紘が寝た後と起きる前に、ベランダでこっそり紫煙を燻らすのが日課だった。男はバレていないつもりかもしれないが、千紘は気付いていた。染み付いたにおいは簡単には取れない。    その男は、出会ったその日から口うるさかった。あれをしろだのこれをするなだの、千紘の食事の仕方にまで文句を付けた。それなのに、温かい食事と清潔な着替えと安心できる寝床とを千紘に与えた。    男がどういうつもりでそうするのか、千紘には皆目見当も付かなかった。一銭の得にもならないのに、なぜ千紘の世話を焼くのか。なぜ、世の親達が自分の子供にそうするように、千紘にとやかく指図するのか。    分からないなりに、千紘はこの場所を気に入っていた。温かい食事も温かい風呂も温かい布団も、いまや千紘の当たり前になっていた。そして、千紘の新しい当たり前を作ったのは、その男に相違ないのだった。    *   「げェ~、煙なんか吸ってうめーのかよ」    颯希の指示で通わされている“学校”が休みの朝、千紘は珍しく早く起きた。ベッドに颯希の姿はなく、カーテンの向こうが眩しかった。    ベランダへ出てみれば、案の定、颯希が一服していた。室外機に灰皿を置き、手摺りにもたれて朝日を浴びていた。千紘の姿に気付くと、吸いさしの煙草を揉み消そうとする。   「いーって。吸えばいーじゃん」 「……中入ってろ」 「なんでだよ。別にいーぜ。慣れてっし」 「そういう問題じゃ……」    颯希は少し迷ったが、結局それを口に銜えた。深く吸い、煙を吐く。大人は皆これが好きだが、何がいいのか千紘には分からなかった。煙なんかより、バターをたっぷり塗ったトーストの方が絶対にうまいのに。   「な~」 「……なんだ」 「なんでもねー」    煙草は嫌いだった。臭いし熱いし痛いから。でも、この男のその姿は嫌いじゃなかった。爽やかな朝の日差しに、蒼い煙がよく似合うと思った。    颯希は、透明なガラス製の灰皿に丁寧に灰を落とし、すぐにまた、その薄い唇に煙草を挟む。千紘は試しに、颯希の前に両手を差し出した。   「ん」 「……何の真似だ」    颯希は訝しむように眉を顰める。ダメ押しに、千紘はベロを突き出した。舌の上に唾液の水溜まりを作っておく。それでも、颯希は怪訝な顔をするだけだった。   「煙草は二十歳になってからだ」 「フーン」 「まさか、学校で悪い友達でも作ってるんじゃないだろうな」 「ねーよ!」 「ならいい。もし誘われても、絶対吸うなよ。肺が腐るからな」 「わーってるってェ」    的外れな指摘が、千紘には嬉しかった。    千紘の知る“大人”という生き物は、全て酷くろくでもないものであったが、今目の前にいるこの男だけは違うかもしれない。    兄貴ぶって偉そうに振る舞うくせに、本当に痛いことはしない。怖がらせはするが、怖いことはしない。悪いことをすると怒られるが、それが所謂躾だということは、千紘だって理解していた。   「酒も二十歳になってからだからな」 「お~」 「返事!」 「はァーい」    *    おやつにホットケーキが食べたいとわがままを言った。たまたま読んでいた絵本に出てきた双子の野ネズミがホットケーキを焼いていて、それがあんまりにもおいしそうで、居ても立っても居られなくなった。    家にはホットケーキミックスがなかったので、スーパーマーケットへ行くことになった。    買い物は好きだった。見たことのないもので溢れていて、宝の山みたいだと千紘は思った。カートを押すのも好きだった。カートを加速させ、下の台に足を引っ掛けて乗り上げると、スピードを保ったままスーッと滑っていく。まるで風になったみたいで気持ちがよかった。   「おいこら! 危ねぇからやめろって前にも言っただろ!」    しかし、これをやると颯希が怒る。危ないと言われても、怪我をしたこともなければ誰かに怪我をさせたこともない。だからぴんと来ない。だけど、颯希はいつだって止めに入る。   「言うことが聞けねぇならもう帰るぞ」 「えッ、ホットケーキはァ!?」 「作ってやらない」 「ヤダ! オレぁあれが食いてーんだ!」 「だったら大人しくしろ。カートは俺が押す」 「これぁオレんだ!」 「じゃあもう危ない乗り方すんなよ」 「ハイ!」    颯希は左手をカートに添え、千紘が好き勝手できないように押さえて歩く。ホットケーキミックスを買いに来たはずが、肉や野菜がカゴに放り込まれていく。   「なーなー、お菓子買いてー」 「一個だけな」 「やりー!」    千紘は、ぱっとお菓子コーナーに駆けていく。颯希は「走るな!」とまたも声を荒げるのだった。   「持ってきたぜ~」    どさどさとカゴにお菓子を入れる。チョコレートに、クッキー、ビスケット、ポテトチップスに、スナック菓子、キャンディ袋。来週のおやつタイムを想い、涎が溢れる。   「誰がこんなに持ってこいっつった! 一個っつったろうが!」 「あ~? ンだよォ、クソケチ~」 「誰がクソケチだ」 「いでででで」    ぐいーっと頬を抓られる。   「どーせ食うんだからいーじゃん!」 「あればあるだけ食うだろ、お前は」 「くっ、食わねーよ!」 「いーや、絶対食う」 「く、食わねってば!」    千紘は、ようやく解放された頬を摩る。確かに、あればあるだけ食べてしまう自覚はあった。だって、こんなにおいしいものは初めてで、いくらでも食べられる気がするのだ。   「でもよ~、いっぱい買っとけば、アンタも食えんだろ? いつもちょっとしかねーから、オレが全部食っちまうけど、いっぱいありゃあアンタの分も残んじゃねーかって思ったんだよぉ」 「はぁ~? お前……」    颯希は溜め息を吐き、眉間を押さえた。   「……じゃあ三つ買ってやるから、この中から好きなの残して、いらないのは戻してこい」 「マジで!? やーッた!」    大袋のクッキーとビスケットと、あと一つで迷ったが、ポテトチップスを残した。それ以外は泣く泣く棚に戻した。    *    スーパーマーケットからの帰り道、千紘は嫌なものを見つけてしまった。道路のど真ん中に猫の死体が落ちていた。車通りの多い道だ。きっと轢かれたのだろう。   「どうした」    ぼーっと突っ立っているのを、颯希に気付かれた。   「べっつにィ? 猫が死んでただけ」 「そうか」 「うん」 「どこに」 「へェ? いや、あそこ……」    千紘は道路のど真ん中を指差した。あまり見ていたくなかった。颯希が興味を持ったことに驚いた。早く帰るぞ、と急かされるとばかり思っていた。   「知ってる猫なのか?」 「ン~? や、どーだろ」    似ていると思った。颯希と暮らし始める以前の、千紘の唯一の親友に。      初めて会った時、痩せっぽちの死にかけた子猫だった。千紘も、痩せっぽちの死にかけの子供だった。公園の遊具の中で、雨と寒さを凌いでいた。初めて、誰かと体温を分け合うことを知った。    家からこっそりミルクを持ち出して飲ませると、子猫は少しずつ元気になった。それからはずっと一緒だった。寝ても覚めても一緒にいた。茹だるような夏の日も、凍えるような冬の日も、雨の日も風の日も、嵐の晩にだって、数え切れないほどの時間を共に過ごした。    ある時、母親の男に襲われた。千紘は、抵抗する力のないちっぽけな子供だった。いつも、黙って耐えるだけだった。親友のことだけは守りたくて、窓からこっそり逃がすのが常だった。    なのに、あの日は。あの時に限っては、小さな親友に守られてしまった。唯一無二の宝物を、千紘は永遠に失ってしまった。      颯希は、持っていたレジ袋を千紘に押し付けた。   「あ? んだよ、これ」 「ちょっと待ってろ。落とすなよ」    来た道を急いで戻り、しばらくして、コンビニのレジ袋を手に戻ってきた。   「なにすんだ?」 「いいから待ってろ」    颯希は、たった今買ったばかりの軍手を填めると、いきなり道路に飛び出した。   「はァっ!? おいっ! 何してんだよ!!」    常々、道路には飛び出すなと口酸っぱく教えるくせに、自分は道路に飛び出すのかよ。呆れた男だ。そんなに死にたいのか。    派手なクラクションを鳴らして、車が一台通り過ぎた。何かを胸に抱えた颯希が、颯爽と現れた。それは猫の死体だった。   「どうだ。知ってる猫か?」    新品のタオルに寝かされたその猫は、千紘の親友とは似ても似つかなかった。千紘の知る彼は、お腹の渦巻き模様がかわいくて銀の毛並みが美しい猫だった。    今目の前に横たわるコレは、およそ生物とは思えない。見るからに硬く、冷たく、どす黒い血の付着した毛は酷く縺れて強張っていた。   「知ンねー」 「そうか」    颯希は、猫をタオルに包んだ。   「……な~、それどーすんの」    一旦アパートへ帰り、スコップを持って河川敷に行った。ほとんど手入れされていない、雑草が好き放題に生い茂る原っぱだ。適当な場所を見つけて、颯希はスコップを突き立てた。    二人は交代で穴を掘った。だんだん暑くなってきて、玉のような汗が青い葉っぱを濡らした。    最後に、棒切れを一本地面に立てた。何かと千紘が問うと、「墓標だ」と颯希は答えた。颯希が両手を合わせて目を瞑るので、千紘も隣で真似をした。   「なァ、これなに?」 「成仏してくださいって、お祈りだ」 「ジョーぶつ」 「天国に行けますようにってことだ」 「死んだら天国に行くんか?」 「……そうだな。生きてる間にいいことをすれば天国に行ける。そうじゃなくても、こうやって誰かが代わりに祈ってやれば天国に行ける」 「……へェ~」    それなら、千紘の親友も天国に行けたんだろうか。こういう風に祈ってやれはしなかったけど、あいつはいいやつだったから、きっと天国に行けたはずだ。   「天国って、どんなとこなん?」 「さぁな。俺も行ったことはないから知らない」 「は~? んだそれ。楽しくねーのかよ」 「よく聞く話だと、綺麗な花畑が広がってるとか、街が宝石でできてるとか、あとは、食べ物がめちゃくちゃおいしいとか」 「マジ!? 天国サイコーだな!」    食べ物というワードに反応して、千紘の腹の虫が鳴いた。そういえば、おやつにホットケーキを焼くために出かけたのだった。早くしないとおやつの時間が過ぎてしまう。   「帰るか」 「おう! 早くホットケーキ!」 「分かったから、走るなよ」    心がふんわり軽くなった気がする。ミータローが天国で待っているのなら、いつかまた会えるかもしれないと思えた。

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