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第二章 かけがえない家族 局所的集中豪雨①

 夕方、町は突然の豪雨に見舞われた。昼間は汗ばむ陽気だったのに、帰る頃には気温が急低下した。千紘が洗濯物を取り込んでくれていることに期待しつつ、俺は急いでアパートのドアを開けた。   「ただいま」    家の中は真っ暗で、しんと静まり返っていた。   「……千紘?」    寝落ちでもしたのかと思い灯りをつけるも、千紘の姿はどこにも見当たらない。   「……千紘!」    虚空に向かって叫んでみる。返事はない。家中を捜した。寝室、風呂、トイレ、クローゼットの中まで。でも見つからない。    そこでやっと気が付いた。いつもなら玄関に脱ぎ散らかしてあるはずの千紘の靴がない。カバンは廊下に放り投げてあるが、いつもなら脱ぎっ放しになっているはずの靴下がない。   「あいつ……」    一度帰ってきてから出かけたのだ。だが、どこへ? 何をしに? 既に日は暮れ、大雨が降り続いているというのに、なぜ帰ってこない? もしや、事件や事故に巻き込まれたのではないか。こういう時、保護者にできることは何だ。   「……けっ、警察!」    咄嗟に受話器を取るが、躊躇する。本当にこの選択は正しいのだろうか。もしかすると、ただその辺をほっつき歩いているだけかもしれない。    友達とゲームセンターで遊んでいるとか、コンビニで菓子を買っているとか。その程度のことで警察を呼んで大事にするなんて、馬鹿げているのではないか。   「はぁ……」    落ち着きたくて、煙草に火をつけた。換気扇を回し、煙を吹かす。けれども、思ったような効果を得られない。ニコチンが全く効かない。焦燥が募り、貧乏ゆすりばかりが激しくなる。家の中にも雨音が響く。    ふと思い立って、学校に電話をかけた。始めからこうするべきだった。もしかすると、授業が長引いているだけかもしれない。    しかし、期待はあっさりと裏切られる。千紘はとっくに学校を出たそうだ。廊下に放り投げられたカバンが目に入り、自分がかなり混乱していることを知る。   「ああ、もう……」    じゃあ、やっぱり警察か? でも、事件でも事故でもないかもしれないし。家で待っていれば、案外ひょっこり帰ってくるかも。でも、土砂降りの闇の中を一人で歩くなんて危険すぎる。何かあってからでは遅いのに。    子供の帰りが遅い時、世の親達は皆このような胸騒ぎに襲われているのだろうか。俺も小さい頃迷子になったことがあるが、あの時の母さんも同じ気持ちだったのだろうか。中学生の頃家出をしたことがあったが、あの時の姉さんもきっと同じ気持ちだったに違いない。    今の俺にできることといったら、ここでじっと千紘の帰りを待つことだけなのだろうか。だが、そんなことはとてもできない。焦燥に駆られつつ、ただじっと待っているだけなんて。    居ても立っても居られなくなり、玄関を開けた。冷たい風と共に、冷たい雨が吹き込んだ。捜していた子供が立っていた。   「あれェ……?」 「お前っ……!」    千紘はきょとんと目を丸くし、見慣れた間抜け面で俺を見上げた。俺は、叱るのも忘れて千紘を抱きしめた。頭も服もぐっしょり濡れて、すっかり冷たくなっている。   「お~? ァんだよ急にィ。アンタも濡れんぜ?」 「こんな時間までどこほっつき回ってたんだ」 「ェ……駅」    怒られると思ったのか、千紘は小さい声で答える。   「今日、電車で仕事行くっつってたろ。傘忘れてたから、持ってってやろーと思って……」    確かに、千紘の手には俺の黒い傘が握られていた。    *    今日は朝から快晴だったが、千紘は颯希に言われて傘を持って登校した。しかし、帰る時に雨は降っていなかった。だから、学校に傘を忘れた。    電車に乗っている間に雨が降り始め、あっという間に豪雨となった。駅からアパートまで、濡れながら歩いた。玄関の傘立てに颯希の傘を見つけ、駅まで届けてやろうと思った。    どうしてそんなことを思ったのか、千紘は自分で自分が不思議だった。颯希が濡れて帰ってこようがどうしようが、千紘には関係のないことなのに。    颯希の傘を持ち、アパートから駅まで駆け戻った。改札前に突っ立って、颯希の帰りを待った。電車が到着する度に波のように押し寄せるスーツを着たサラリーマンの中から、目を皿にして颯希の姿を探した。しかし、颯希は全然見つからない。    だんだん疲れてきた。立つのに疲れて壁に寄り掛かり、それも疲れてしゃがみ込んだ。それでも、颯希は帰ってこない。    ふと、不安になった。もしかして、颯希は二度と帰ってこないんじゃないだろうか。もしかして、自分は捨てられたのじゃないだろうか。いい子にしていないから、いよいよ愛想を尽かされたのかも。どうしよう。    引き取られてきた当初、大人に顧みられないことが当たり前になりすぎていた千紘は、颯希との生活に何の期待も抱いていなかった。どうせすぐに飽きられて捨てられるに決まっていると思っていた。    今更愛情なんて求めない。求めても手に入りっこないと知っていた。そんな空虚で曖昧なものを求めて苦しむより、始めから綺麗さっぱり諦めてしまった方が楽だと知っていた。    それが、一体どうしたことだろう。颯希は、千紘が求める以上のものを、見返りもなしに与えてくれた。そのことに、千紘はいつの間にか慣れてしまっていた。    求めても手に入らなかったはずのものを与えられすぎて、大事なことを忘れていた。自分は誰かに愛されるに値しない存在だということを。    だから颯希に捨てられても仕方ない、とは思えなかった。とっくの昔に置き忘れてきた衝動だと思っていたが、颯希に捨てられることが、どうしようもなく怖い。    誰かを愛したい、愛されたいというくだらない欲望が、はらわたを切り裂いて這い出てくる。颯希との生活を失いたくない。    駅からアパートまで、雨の降りしきる中を走って帰った。帰って、颯希がいなかったらどうしよう。そんな不安を胸に抱えて、文字通り吐きそうになりながら全速力で駆けた。そしてドアノブに手を掛ける。ドアは勝手に開いた。探していた男が立っていた。   「お前っ……!」    颯希の顔を見るなり、ほっとして力が抜けた。同時に震えがくる。寒い。    颯希はスーツが濡れるのも厭わずに、千紘の冷え切った体を抱きしめてくれた。ぐっしょり濡れた前髪から雨水が滴り、目尻から頬を伝って流れ落ちた。    颯希は急いで風呂を沸かし、千紘は風呂に入れられた。しっかり温まるまで出てくるなと言われて、いつもより長風呂をした。    風呂を上がると、颯希が大きいバスタオルで包んでくれた。頭も体も拭いてくれた。すごく甘やかされている気がして、こそばゆかった。    夕食は、千紘の大好物のハンバーグだった。上にチーズがのっている、とっても豪華なやつだ。付け合わせの甘い人参やカリカリポテト、ほうれん草のソテーやミネストローネスープも、全部千紘の好物だった。   「なンっ、えっ……なに? 今日なんかの記念日? たんじょーび?」 「別に。好きだろ」 「ぅ、うん……いただきます!」    このところ、千紘は箸の練習を頑張っている。お子様用のフォークなんて、時々しか使わない。   「うンまぁ……」    溢れ出す肉汁に頬が緩んだ。颯希のハンバーグが、千紘は一番好きだった。店でも食べたことがあるが、颯希の作るものの方がおいしく感じた。    店のハンバーグだって十分おいしくて、変わったソースがかかっていたりチーズが入っていたりして楽しいのに、どうしてか颯希のハンバーグには敵わない。   「な~、なんで今日のメシ、うめーもんばっかなん?」 「いつもうめぇだろ」 「そーだけど! そーじゃなくって! オレの好きなもんばっかってこと!」 「まぁ、そうだな……」    颯希はスープを一口飲んで言う。   「お前に、ありがとうって伝えたくて」 「……はァ~~ッ? 意味わっかんね!」 「分かっとけよ、そこは」 「わかんねーもん! なんでオレにアリガトウ? 口で言やァいいのに、なんでメシ? そりゃあハンバーグはうれしーけどよ~」    千紘は、心の機微に疎かった。颯希は軽く溜め息を吐く。   「ハンバーグ作ったらお前が喜ぶと思ったから、感謝を態度で示したんだ。感謝ってのはありがとうって気持ちのことだ。お前が傘届けようとしてくれたのが嬉しかったから、お礼にハンバーグ作った。これで分かるか?」 「お~ぅ」 「箸をしゃぶるな。行儀悪いぞ」 「はぁい」    マナー違反を指摘する声も、いつもより優しい。これが、感謝を態度で示すってことなのだろうか。誰かに感謝されるのは初めてで、千紘は照れくさくてしょうがなかった。    考えてみれば、颯希は折り畳み傘とやらを持っていたらしいし、あまりの豪雨にタクシーを使って帰ってきたらしいから、千紘が傘を届ける必要はそもそもなかったのだ。    しかしそれでも、颯希は千紘にありがとうと言ってくれる。そのことが千紘は嬉しくて、もしかしたらそのために傘を届けようと思い立ったのかもしれないなどと思う。   「でも、いつまでも帰ってこないとこっちが心配するからな。今日みたいに行き違いになることもあるし、これからは手紙残して出掛けるようにしろ。遅くなる時は電話でも掛けてこい。公衆電話、駅にあるだろ」 「使い方知んねーし」 「……今度教える」    颯希はまた、やれやれと溜め息を漏らした。    *    夜中、千紘は暑さに目が覚めた。喉を掻き毟りたくなるほどの蒸し暑さ。パジャマが汗を吸って重たくなっている。邪魔くさくなって脱ごうとしたが、腕に力が入らない。起き上がろうとしても、体が自由に動かない。まるで、見えない力に押し潰されているようだ。    ただただ苦しい。暗闇が怖い。無性に心細い。涙まで溢れてくる。明らかにおかしいのに、何が起きているのかよく分からない。頭までどうにかなっちゃっているのかも。   「大丈夫か」    暗闇に、颯希の声がした。額に触れた手が冷たくて気持ちいい。   「飲め」    唇に何かが触れる。ぬるいお湯が流し込まれる。喉は渇いていたのに、千紘はそれを一口飲んで、吐き出した。   「こら、ちゃんと飲め」 「やっ……」 「やじゃねぇ、飲め」    千紘は、やだやだとかぶりを振って暴れた。今飲まされたお湯は初めて知る味だったが、舌がピリつくほど苦かった。毒に違いない。颯希に毒を飲まされたことが悲しくて、千紘は泣いた。   「泣くなよ……」 「ぅ、うぅ、やだぁ……」 「はぁ……ったく」    再び、唇に何かが触れた。コップの硬く冷たい感触とは違い、柔らかくて温かくて、ちょっとおいしい気がした。    思わず口を開けると、すかさずあの苦いお湯が流し込まれる。今度は吐き出せなくて、飲み込んでしまった。二度と朝日は拝めないのかもしれないと思い、千紘はまた泣いた。   「ほら、ちゃんと服着ろ。布団被れ」    毒を飲ませたくせに、颯希は優しい。   「……しぬ?」 「死なねぇよ。寝て起きたら治ってる」 「さつきぃ……」 「何だ」 「そばにいてぇ……」 「いるから、寝ろ」    颯希に頭を撫でてもらい、千紘は安心して目を閉じた。優しいメロディーが聞こえてきて、あっという間に夢の中だ。

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