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第二章 かけがえない家族 局所的集中豪雨②
夜中、俺は千紘の魘される声で目が覚めた。時計を見れば三時前で、夜というより明け方に近かった。昨日は色々疲れたし、今日も普通に仕事だし、こんな時間から看病だなんて面倒くさい、と正直なところ思った。
「大丈夫か」
千紘の額に手を当てると、思った通り熱い。触って分かるくらいだから、相当高熱なのだろう。どんな具合か、薬は飲めそうかと尋ねても、千紘は苦しそうな声を上げるばかりで、起きているのか眠っているのか、意識の在り処さえ分からない。
こういう時、小さい子供なら救急に駆け込むところだろうが、千紘の年齢なら市販薬で様子見するのが普通だろう。幸い常備薬がある。砕いた錠剤を白湯に溶かして飲ませた。
しかし、千紘は苦味に敏感らしかった。一口飲んで、すぐに吐き出した。挙句、涙を散らして暴れる始末。暴れるといっても、熱に浮かされた手足に力は入っていないが。
普段はひたすらに生意気な千紘の弱り果てた姿、薬を怖がってすすり泣く姿は庇護欲を掻き立てるものであったが、薬を飲んでくれないのには参ってしまった。飲めば楽になるのに、この子供には分からないらしい。
俺は、錠剤を溶かした白湯をあおり、口移しで千紘の口に流し込んだ。千紘の動きが一瞬止まり、俺の衣服をぎゅっと掴んだ。案外大人しかった。口の中は額よりもずっと熱くて、ぬるま湯さえ蒸発しそうだった。零さないよう口を覆って、千紘の喉の音を聞いた。
「ん、……」
熱に浮かされた顔は真っ赤に火照って、涙の膜が張った三白眼は焦点が合わない。ぼんやりと虚空を見つめたかと思えば、ぽろぽろと涙が溢れた。
そんなに苦かったのか、それとも熱のせいで涙腺が壊れているのか。どちらにしても、千紘に泣かれると困ってしまう。どうしたらいいのか分からない。
そのせいか、そばにいてほしいなんて甘ったれたお願いも、今日は存分に叶えてやりたいと思った。汗で湿った髪を撫で、柄にもなく子守唄なんか口ずさんでしまった。苦しげな呼吸の合間に洟をすすっていた千紘は、いつしか安心したような寝息を立てていた。
*
お昼前に千紘が起きてきたので、熱を測った。
「何か食べられそうか」
「ん~……? 仕事は?」
「休んだに決まってるだろ」
「……学校?」
「休みに決まってるだろ。食べられそうならお粥作るぞ」
「うん、食べたい……へへ」
千紘の、普段なら絶対に見られないだろう気の抜けた笑顔が、不覚にもかわいいと思ってしまった。
「リンゴも食べるか」
「うん……!」
千紘は、昨晩のことは意識が混濁していてあまり覚えていないようだった。俺は内心胸を撫で下ろした。
いくら薬を飲ませるためとはいえ、口移しはまずかった。昨晩は俺も動揺していたから気にならなかったが、朝起きて真っ青になった。そう考えると、千紘の涙の意味も違ってくる。
ファーストキスを奪われて泣いていたのだとしたらどうしよう、と俺は一人で右往左往した。杞憂に終わってよかった。
「な~、このリンゴ、なに?」
「ウサギリンゴだ。皮が耳の形になってるだろ」
「ほんとだぁ~。へへ、かわいい」
千紘はリンゴを摘まんで、机の上をぴょんぴょん飛び跳ねさせた。
「食べ物で遊ぶなよ」
「さつきも食べて」
ウサギが頭から俺の口に突っ込んできた。仕方なく、一口齧る。甘くて酸っぱくて瑞々しくて、うまい。
「病人なんだから、全部一人で食っていいんだぞ」
「一緒に食う方がうめーもん」
俺の齧りかけのリンゴを、千紘は自分の口に運んだ。頬を丸く膨らませ、シャグシャグと咀嚼音を響かせる。お粥も平らげたし、食欲はあるようで安心した。
食後に薬を飲ませた。わざわざ白湯に溶かすなんて面倒なことはしなかったが、千紘は「ラムネみてー」と呑気なことを言って、あっさり丸呑みした。昨夜の騒ぎは何だったのかと問い詰めたくなったが、自ら墓穴を掘りにいくわけにもいかなかった。
「これさぁ、いっぱい飲んだらめっちゃ効くんじゃね?」
「飲み過ぎると死ぬぞ」
「ひぇ……毒じゃん」
「物騒なことを言うな。薬飲んだらさっさと寝ろ」
「え~? もう寝んの飽きたぜ。せっかく休みなんだし、昼間やってるテレビ見てぇ」
「何のための休みだと思ってんだ。寝なきゃ治るもんも治らねぇだろ」
「やぁだぁ~、テレビ見たいぃ~」
「わがまま言うな」
俺は、千紘を引きずって布団に戻した。隙間がないように、掛布団をぽんぽん叩く。枕に頭をのせてこちらを見上げてくる千紘の顔は、さっき剥いた林檎のように赤い。この小さな体は、今まさに病原菌と闘っているのだ。
「さつきぃ……今日はずっと家いる?」
「いるよ」
「なぁ~……手、ぎゅってしてて」
そろそろと布団から手を覗かせる。ダメ? と上目遣いで甘える。
「……今日だけ、特別だからな」
「へへ、やった」
普段は首輪や手綱の代わりに手を繋いでいるので、こうして意味もなく千紘の手を握るのは初めてだった。俺の手よりも一回り小さくて、手首は指が一周するほど細くて、でも、確実に血が通って温かかった。
「なんかよ~、たまにゃあ、具合悪くなんのもいいな」
「いいわけあるか」
「だって、優しーんだもん」
千紘は、繋いだ手に唇を寄せる。
「こんなんさぁ、オレぁ、今日初めて知ったよ。昔は、具合悪くなったらさ、死ぬぅ~って思いながら寝てるだけだったけどよ。今は、悪くねーかもって思えんだ。さつきが優しいからさ」
千紘は、俺の手に口をつけた。はむはむと唇で甘噛みされて、くすぐったい。
「何してんだ」
「ん~……わかんね」
「口寂しいのか」
小動物が人の手を舐めるようなものだろうか。今日のこいつは、捨てられた子犬みたいだ。
「そばにいてやるから、目瞑れ。お前が大人しいと調子狂うんだよ」
「うるせーオレのがいいのぉ?」
「程々にうるせぇお前がいいな」
「んだそれェ。わがままだぜ」
*
夕食前には千紘の熱は引いた。いつも通り元気いっぱいに食事をし、風呂に入り、湯冷めする前に床に就かせた。
ベランダに出て、久しぶりにゆっくりと煙草を吸っていたら、窓が開いた。急いで火を消す。最後の一本だったのに。
「んだよォ、別に吸っててよかったのに」
「お前、寝たんじゃなかったのか」
「昼間ずっと寝てたからよ~、ぜんっぜん眠くねー」
「眠くなくても寝ろ。何時だと思ってんだ」
「いーじゃん、たまには。夜更かし」
「よくねぇよ」
「なーなー、コンビニ行ってきていい?」
「はぁ~? お前、何時だと思って……」
一瞬考えたが、結局出かけることにした。俺は、部屋着のままでサンダルを突っかける。深夜に未成年を連れ回すのは条例違反だったような気がするが、近所のコンビニくらいなら許されるだろう。
「コンビニだけで、すぐ帰ってくるからな」
「アンタもなんか買うんか?」
「お前を一人で出歩かせるわけにいかないだろ」
「ふーん? そーゆーもんかァ?」
夏の匂いが溶け込んだ夜風は青くて爽快だ。勝手知ったる自分の町なのに、真夜中になるとまるで初めて来る場所のようで、青白く光る街灯や自動車のヘッドライト、自販機の明かりでさえ新鮮に映る。
「空は、どこから見ても一緒だよな」
星の瞬きさえ聞こえる凛とした静寂に、千紘の声は自然と低くなる。俺もつられて空を見上げた。ちょうど、夏の大三角形が天に昇っていた。
「七夕だな」
「それ、最近学校でやったぜ。笹の葉? ってやつに、願い事書いた紙引っ掛けんだ。うまいもんいっぱい食えますよーにってお願いした」
「食い意地ばっかり張りやがって。七夕伝説は習わなかったのか」
「え? えーと、たしかァ……織姫と彦星のやつ?」
千紘が知らないようなので、軽く説明をする。これも教育の一環だ。
「なるほど~? 神様ってやつァひでーなァ。結婚したら毎日イチャイチャすんだろ、普通。オレだったらするね。だって、織姫ってかわいいんだろ? かわいい子と結婚してェ、毎日イチャイチャして過ごしてーなァ」
「お前にはまだ早いだろ」
「早くねー! アンタこそ、彼女いねーくせに!」
「大人をバカにするな。彼女くらいいたことある」
「へッ……?!」
千紘は、さも意外というように目を剥いて立ち止まった。失礼なやつだ。
「カノジョ……いたことあんのォ!?」
「当たり前だろ。早くしねぇと置いてくぞ」
「う、うう、ウソだァ!」
千紘は叫んで、俺の背中に突進した。思わず呻き声が漏れるほどの重量感に、千紘の成長を感じる。
「バカ、大声出すな」
「だって、だってよ、アンタだけずりーじゃん! オレだってェ……つか、じゃあチューは? チューしたことあんのォ?!」
「あるに決まって……」
ふと、昨晩のことが頭を過った。千紘は覚えていないようだが、実はファーストキスは俺と済ませてしまっているのだ。正確にはキスではないが、千紘にしてみれば同じことだろう。真実を知られたら、嫌われるどころの話じゃない。
「ファーストキスはレモン味とかイチゴ味とかいうけどよ、マジでそーなん? 酸っぱ甘い感じ? オレも早くしてみてーなァ、うふふ」
絶対に知られるわけにはいかない。恋愛に対して少年らしくあどけない憧れを抱いている千紘に、お前のファーストキスは薬の味だなんて言えるわけがない。この秘密は墓場まで持っていこう。
「……そんなに知りたいなら、飴でも舐めとけ」
「飴ェ? 買ってくれんの?」
千紘は、楽しそうにスキップしてお菓子売り場へ直行した。俺は、興味もない雑誌コーナーを回り、ドリンクコーナーで缶ビールを手に取って戻した。お菓子売り場には既に千紘の姿はなく、冷たいデザートを吟味していた。
「な~、プリンとゼリーとヨーグルト、どれがいーんだ?」
「はぁ……? 勝手に好きなやつ選べばいいだろ」
「えェ~? ダメだろ、それじゃ。アンタの好きなンがいーんだもん」
「……強いて言うならゼリーか?」
「おー。このフルーツミックスでいっか!」
千紘はカゴにゼリーを入れた。
「飴はいいのか?」
「今日はいーや」
煙草とライターも買って、コンビニを後にした。わざわざ深夜に家を出てきたのに、大したものを買わなかった。やっぱりビールを買っておけばよかったかも。
しばらく歩いて、突然千紘が立ち止まった。ゼリーしか入っていないレジ袋を、「ん」とこちらへ突き出してくる。その意図を掴みかねて、俺も立ち止まった。
「どうした?」
「……これ、やる」
街灯に照らされた千紘の耳が赤い。俯き、小さな声で言う。
「……今日、いっぱい優しくしてくれたから、お礼。……アリガト」
「あ、ああ……」
まさか千紘からそんな言葉を聞くことになるとは思っていなかった俺は、戸惑いながらもお礼を受け取った。ていうかこれ、俺が買ったゼリーなんだが。それなら別のものがよかった。けれど。
「ありがとう」
自分でも自分が不思議だが、純粋に嬉しかった。千紘の情緒的な発達を感じたのもあるし、何より、ひとに感謝されるのは嬉しい。俺が千紘の看病をするのは当然の義務だと思っていたので、こういう思いもよらないお返しは尚のこと心に沁みる。
「……ありがとって言われたら、ありがとって返すんか?」
「場合によるだろうが、俺は今嬉しかったから」
「オレも! オレも今、アンタがありがとって言ってくれて、嬉しかった! つか、昨日も嬉しかった! ありがとな!」
牙のような八重歯を覗かせて、千紘は愛嬌たっぷりに笑った。
「あはは、すげーなコレ! ありがとって言うのもなんかうれしーし! 二人で言い合ってたら、ずっと嬉しくいられるんじゃねーのォ?!」
「そんなのしてたら、アホ丸出しだろ」
「アホじゃねーもん! 天才だもん!」
叫んで、千紘はだっと駆け出した。
「家まで競走な!」
勝手に宣言して、駆けていく。
「こら、一人で行くんじゃねぇ」
「ガハハハッ、悔しかったら追いついてみやがれ!」
俺も駆け出した。負けるつもりは毛頭ない。夜の街を全力で走るのなんて、いつぶりだろうか。もしかすると、初めてかもしれなかった。
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