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第五章 繋がる心 クリスマス・イブ①

 冬は嫌いだった。飢えと寒さがいっぺんに襲ってくる。寒いと腹が減る。腹が減ると余計寒い。最悪のループだ。唯一、食べ物が腐りにくいことだけは冬の長所だったが、他には何一ついいことがなかった。    かじかむ手でミータローを抱きしめ、薄っぺらいジャンパーを羽織って、一睡もできないままいくつの夜を越えたか知れない。雪なんか降ったら最悪で、一晩中公園の遊具の中から動けないなんてこともしょっちゅうだった。    でも、今は嫌いじゃない。秋が深まってくると、颯希はまずカーペットを冬用のものに替える。さらに寒くなってきたら、炬燵を出す。冬本番になったら、ストーブを出す。綿の入った半纏を羽織り、炬燵に入り、ストーブに当たれば、寒さなんて感じる隙もない。    炬燵でミカンという、日本人なら誰でも知っている定番のスタイルも、千紘は颯希に教わって知った。暖かいと喉が渇くので、それをミカンで癒すというわけだ。理に適っているし、そうでなくてもミカンはおいしい。    *    今年もまた、クリスマスがやってくる。リビングにクリスマスツリーを飾り、玄関ドアにはクリスマスリースを飾り、棚の上にはスノードームを飾った。さらに、アンティークのくるみ割り人形、ガラス製のミニツリーが追加された。    テレビを見ていた颯希が、「クリスマスといえばくるみ割り人形だよな」と呟いたのがきっかけだった。    くるみ割り人形を知らなかった千紘は興味を示した。「確か元はバレエで」と、颯希が話の内容を軽く教えてくれた。音楽も、軽く口ずさんで教えてくれた。だが千紘にはぴんと来ない。くるみ割り人形が何者なのか、イメージできなかったからだ。    そこで、じゃあ本物を見に行くか、という話になった。本物といっても、バレエの方ではない。おもちゃのくるみ割り人形だ。千紘にはバレエはまだ難しい。    クリスマス間近のアンティークショップは、クリスマス関連の雑貨がいっぱいで、夢の国みたいだった。クリスマスというだけでどうしてわくわくするのか、千紘にはよく分からなかった。クリスマスにいい思い出があるわけでもないのに。    去年のクリスマスは覚めない悪夢のようだったし、それ以前は、ただ疎外感を覚えるだけのつまらない日だった。だが、ゴミ漁りにはもってこいの日でもあった。クリスマスの夜は、うまい食い物がやたらとたくさん捨てられていた。   「これがくるみ割り人形だ」 「これが……」    颯希が見つけて教えてくれたそれは、何というか、すごく……   「ブサイクだな」 「お前な、失礼だぞ」 「だってそーだろ! 話聞いてた感じだと、強くてかっこいい王子様だったのに、ンだよこのヒゲ面は! 服もなんか変だし!」 「こういうもんなんだからしょうがねぇだろ!」 「そんなんより、オレこっちがいーな。小っちゃいツリー! キラキラしててかわいーし」 「興味を失うのが早すぎるんだよ、お前は……」    呆れたように笑いながら、颯希は律儀に両方ともを購入したのだった。    千紘は、冬が好きになっていた。颯希がマフラーを巻いてくれる。かじかんだ手を温めてくれる。寒さを理由に颯希が甘やかしてくれる、冬が好きになっていた。    *    今年もクリスマスがやってきた。千紘が颯希と過ごすクリスマスは、今年が初めてだ。去年は色々なことがありすぎて、クリスマスだの何だのと浮かれている余裕はなかった。物理的にも、精神的にも。    しかし今年は違う。一点の曇りもなく、目一杯楽しみ尽くすつもりだ。おいしいものをたくさん食べて飲んでやる。   「お邪魔しま~す!」    ケーキがやってきた。違う。ケーキを持った茜がやってきた。   「うひゃ~、外は寒いよ~」 「飯もうできるんで、あったまっててください」 「おせーぞアカねーちゃん! テレビ始まっちまう!」 「ごめんごめん。ケーキ屋さん、すっごい混んでてさ~」    人が一人増えるだけで、家の中は一気に華やぐ。クリスマスはちょっとやかましいくらいがちょうどいい。   「そーだ、千紘くん。はい、クリスマスプレゼント」 「えッ……!」    茜がカバンから取り出したのは、サンタクロースとトナカイの包装紙に包まれた、小さなプレゼント。   「いっ、いーの!?」 「いいよ。開けてみて」 「わぁ……!」    プレゼントはゲームのソフトだった。テレビで見たことのある有名キャラが、パッケージでポーズを取っている。   「うれし……あでも、どーしよ、オレ……」    ゲーム機本体を持っていない。ソフトだけもらっても、持て余してしまう。   「本体はサンタさんにもらうんでしょ?」 「あっ……!」    そういえばそうだった。そんなようなことを手紙に書いた。でも、どうして茜がそれを知っているのだろう。秘密を洩らした犯人は一人しかいない。   「こら、プレゼントもらったら何て言うんだ」 「颯希!」 「はぁ……?」    颯希は、出来上がったごちそうの数々をテーブルに並べる。千紘の大好きなポテトサラダに、前日から仕込んだローストチキン、熱々のビーフシチューとグラタン。いい香りがして、見た目にもおいしそうで、千紘は早速涎を垂らした。   「うまそ! いっただき――」 「待て、焦るな」    ごちそうを前に待てだなんて、颯希も酷なことを言う。チキンにこっそり手を伸ばすと、軽く叩かれた。   「待てだ。待て」 「クソケチぃ~」    颯希はグラスに飲み物を注ぐ。普段飲酒はあまりしない、飲むとしてもビールばかりなのに、今日は少しお高そうなボトルに入った酒を飲むらしい。グラスに注がれたそれは淡い金色に輝いて、見るからに高級そうだ。    キラキラの気泡に見入っていると、千紘のグラスにも透き通った飲み物が注がれた。普段は、落として割ったら大変だからとプラスチックのコップを使うよう言われているが、今夜は特別に大人用のコップを使わせてくれるらしい。    千紘のグラスに注がれたものも、金色に輝いて高級そうだった。   「……お酒、飲んでいーの?」 「お前のはただの炭酸ジュースだ。安心して飲め」 「ンだよ~。飲んでみたかったのにぃ」 「バカ、飲酒喫煙は二十歳になってからだ」 「そーだぞ、千紘くん。高校生のうちからお酒なんか飲んでたら、ろくでもない大人になっちゃうぞ」 「ろくでもないって?」 「ん~、道端でゲロ撒き散らかしても何とも思わないような大人かな」 「うっわ、そりゃひでーな。犬のがまだマシだぜ」 「先輩、これから食事だってのに」 「あは、ゴメンって~」    千紘はシャンメリー、颯希と茜はシャンパンで乾杯をした。“乾杯”という言葉の響きも、耳慣れない千紘にとっては新鮮に聞こえた。    クリスマス特番の歌番組は、クリスマスにちなんだ歌を流し続けている。CM等で聞き覚えのある曲から、往年の名曲、洋楽に至るまで。知らない曲でも、聞いているとうきうきする。    これがきっと、正しいクリスマスの過ごし方なのだろう。親しい人達と料理を囲み、プレゼントを交換し、素敵な音楽で彩る。知らなかった。初めて知った。冬がこんなに暖かいなんて。    ミータローと二人きりで凍えていた過去の自分に教えてあげたい。クリスマスはオレ達のことも受け入れてくれる。冬を暖かくする方法はいくらでもある。飢えと寒さに喘ぐだけの季節じゃないって。   「じゃじゃーん! お待ちかねのケーキだよ!」 「よっしゃあ! 一番待ってた!」    茜が、冷蔵庫からクリスマスケーキを運んできてくれた。ショーケース越しでなくホールケーキを目にするのは、千紘は初めてだった。    いざ目の前にすると、思った以上に大きい。真っ白なクリームの絞り方は芸術的で、真っ赤なイチゴには粉雪が舞っていて、切り崩してしまうのがもったいないと感じた。    颯希が、包丁を温めて持ってきた。刃を入れようとして、躊躇する。   「……デカすぎませんか。三人で食べ切れるかな」 「それぞれ食べられる分だけ食べたらいいんじゃない? 余ったら明日食べてよ」 「じゃあオレ一人で全部食いてぇ!」 「バカ、腹壊すぞ」    とりあえず四分の一ほどが切り分けられて、千紘の皿に載せられた。「雪だるまも!」と言えば、雪だるまを模した砂糖菓子がクリームの上へ載せられる。    ホールの状態でも芸術的だったが、断面までもが芸術的だ。スポンジとクリームとイチゴが、美しい層を描いている。見た目はもちろん、味も最高だ。ふんわりとしたスポンジ、しっとりとしたクリーム、瑞々しいイチゴ。この組み合わせを考えた人は天才に違いない。   「ッはぁ~~、クリスマスってサイコー」 「どうした、急に」 「プレゼントもらえるし、颯希のメシはうめーしよ。このよくわかんねージュースもうめーし」 「シャンメリーだ」 「あとやっぱケーキがうめぇ。マジうめぇ。いくらでも食えるわこれ。もー毎日クリスマスがいい~」 「……アホか」    颯希は、微かに唇を綻ばせた。

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