39 / 42

第六章 番外編 会えない時間が①

 急遽、出張が決まった。一週間程度の短い出張だ。明日の朝には京都にいる。   「ええぇーーっ!? なんでだよっ! 今日してくれるっつったじゃんっ!」    そして、ベッドには猛獣が一人。近所迷惑になるレベルでじたばた暴れ回っている。   「悪いが明日早いんだ。寝かせてくれ」 「ヤダヤダヤダぁっ! 颯希のウソつきぃ!」 「嘘のつもりはなかったんだよ。仕事なんだからしょうがないだろ」 「ヤダったらヤダっ!」 「分かってくれ。毎晩電話するから、な?」 「うぅ゛~~……」    落ち着かせようとして抱きしめてしまうと、千紘は子犬みたいに唸る。   「毎晩、電話」 「ああ、約束する」 「絶対だかんな」 「ああ、絶対」 「ん……じゃあ、許す」    ご機嫌は多少直ったみたいだった。    *    颯希が出張に行った。一週間で帰ると言っていたが、千紘にとって一週間がどれほど長いか、颯希は分かっていない。    米を炊き、レトルトの中華丼を温めた。お湯を沸かし、インスタントの味噌汁も作った。味はまぁ悪くないが、一人の食卓ほど味気ないものはない。テレビをつけると芸能人が食レポをしていて、千紘はそれを見て一人でうんうん頷きながら、機械的に飯を掻き込んだ。    風呂を沸かす間、電話機の前で待機してみたが、結局ベルは鳴らなかった。烏の行水で風呂を終え、髪も乾かさずに待ってみても、電話は沈黙したままだった。    テレビの音で静寂を誤魔化し、リビングでだらだらと時間を潰す。千紘から電話を掛けることはできない。颯希が掛けてきてくれるのを待つしかない。    夜も更けてきて、うとうとしてきた頃。唐突に電話が鳴った。千紘は飛び起き、受話器を取った。   「おせぇ!」    千紘は開口一番に文句を飛ばす。颯希が苦笑いするのが、電話の向こうから伝わってきた。   「まずは、もしもし瀬川です、だろ」 「うっせー! こんな時間にかけてくるやつ、颯希しかいねーだろ! ったくよぉ、オレがどんだけ待ったと思ってやがんだ」 「悪い。初日だから、色々な」 「おうおう、忘れてた言い訳かぁ?」 「忘れてたわけじゃねぇって。ちゃんと掛けただろ?」   「ふーんだ。遅すぎて寝ちまうとこだったぜ」 「悪かったって。明日はもう少し早くするから」 「何時」 「そうだな、十時には掛けるよ。それまでに飯と風呂と宿題済ませとけ」 「宿題ィ~~!?」 「ちゃんとやれよ。俺が見てなくても」 「やっ……や、やってっし!」 「ウソくせぇな」 「う、うそじゃねーって! ちゃんとやってっから! 心配すんな!」   「そうか? まぁもう遅いから、あったかくして寝ろよ」 「お、おう……」 「戸締り確認してから寝ろよ。鍵かけて、チェーンもちゃんと掛けろ。分かってるな?」 「あ、ったりめーだろ!」 「じゃあ、」    嘘だろ、もうおしまいかよ!? と千紘は内心で叫んだ。まだ全然話し足りないのに。話したいこと、まだいっぱいあるのに。まだ全然寝たくないのに。    でも、颯希の声は疲れていた。朝早くから長距離を移動して、慣れない場所で仕事をしたから、普段よりも疲れたのだろう。それなのに、千紘のことばっかり気にかけて。   「おやすみ、千紘」 「おやすみ、颯希!」    本当はもっと話したかったけど、颯希を心配させるのも嫌だし、千紘は空元気を装った。ツー・ツー・ツー、と切れた電話の向こうに聞こえる電子音が切なかった。    *    二日目の夜は、約束通り十時前に電話が鳴った。ワンコールで、千紘は受話器を取った。宿題はまぁ置いておいて、飯と風呂はきっちり済ませた。   「颯希!」 「千紘。元気か?」 「チョー元気だぜぇ! 颯希は?」 「俺は変わりない。飯何食った?」 「親子丼!」 「だけか?」 「あと味噌汁。お湯入れたらできるやつ!」 「一応ちゃんと食ってるんだな。野菜も食えよ。スーパーにサラダ売ってるだろ。好きなの買っていいから」 「颯希は? そっちでなんかうめーもん食った?」 「俺か? うーん……湯葉とか?」 「ユバ……?」    千紘が首を傾げると、颯希も電話の向こうで首を捻る。   「何ていうか、油揚げをめちゃくちゃ薄くした感じの……うーん、違うか。豆腐の仲間だ、たぶん」 「うめーの? それ。どーやって食うんだ?」 「大人は結構好きなんじゃないか。そのまま醤油つけたり、鍋に入れたりする」 「へぇ~。全然想像つかねーや」   「土産に買ってってやろうか。そうだ、土産何がいい? 欲しいものあるか?」 「つっても、京都んこと全然知んねーしなぁ~。どんな感じなん? こっちと全然ちげー?」 「そうだな、神社と寺がいっぱいある」 「なにそれ。つまんなそ~」 「罰当たりだな。結構楽しいぞ? 今回は仕事だから、あんまり見られないけどな」   「颯希はそーいうの好きなん?」 「まぁ、普通にな。混んでるとあれだけど、朝一とか行くと心が洗われる」 「あは、んだそれ。じじくせーの」 「誰がじじいだ。お前も大人になったらどうせこうなるんだ」    颯希は、京都の町のことを教えてくれた。祇園がどうの嵐山がどうの、宇治抹茶がどうのこうのと。一頻り話して、遅くなり過ぎないうちに電話を切った。今日は随分話ができたけれど、千紘はまだ物足りなくて、後ろ髪を引かれる思いで受話器を置いた。    *    三日目の夜。昨晩と同じく、十時前に電話が掛かってきた。学校で豚の目玉を解剖したから、その話をした。   「女子が一人倒れちまってさ~、大変だったんだ。あ、オレぁ平気だったぜ? でもすンげー生臭くてよ~。マスクはしてんだけど、オレもちょっとゲロ吐きそーんなった。あ、吐いてはねーからな? そこんとこは大丈夫だぜ」 「ん、大変だったな」 「そんでぇ、えっとぉ……」    電話の向こうがすごく静かだ。颯希もはきはき返事してくれないし。   「……颯希、もしかしてねみーの? つか寝てる?」 「……いや?」 「今の間何だよ! 絶対寝てただろ!」 「……まぁ、ちょっと眠い。ベッドにいるから、余計な」    気の抜けたような大きなあくびが聞こえる。   「でもお前の声聞きたいから、続けてくれ」 「んだよぉ、それぇ……」    千紘だって、颯希の声が聞きたくて電話してるのに。でも、疲れているのに無理をさせるわけにもいかない。   「い、いーって。話は後でもできんだし、さっさと寝ちまえよ」 「でもお前」 「いーからいーから! オレんことは心配すんなよ! また明日な、颯希」 「じゃあ……」    ツー・ツー・ツー、と電子音が虚しく響く。千紘は溜め息を漏らし、受話器を置いた。    颯希は今頃、ホテルのベッドで目を瞑っているのだろう。千紘は、空っぽのベッドに飛び込んだ。深く息を吸い込めば、颯希の匂いが鼻腔と肺を満たす。普段颯希から香るものがさらにぎゅっと濃縮された、胸が詰まるほど濃い匂いだ。   「ん……ふ……」    当然のごとく催していた。颯希の枕に顔を埋め、ベッドで身を捩りながら、千紘は自らを慰めた。

ともだちにシェアしよう!