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第六章 番外編 会えない時間が①
急遽、出張が決まった。一週間程度の短い出張だ。明日の朝には京都にいる。
「ええぇーーっ!? なんでだよっ! 今日してくれるっつったじゃんっ!」
そして、ベッドには猛獣が一人。近所迷惑になるレベルでじたばた暴れ回っている。
「悪いが明日早いんだ。寝かせてくれ」
「ヤダヤダヤダぁっ! 颯希のウソつきぃ!」
「嘘のつもりはなかったんだよ。仕事なんだからしょうがないだろ」
「ヤダったらヤダっ!」
「分かってくれ。毎晩電話するから、な?」
「うぅ゛~~……」
落ち着かせようとして抱きしめてしまうと、千紘は子犬みたいに唸る。
「毎晩、電話」
「ああ、約束する」
「絶対だかんな」
「ああ、絶対」
「ん……じゃあ、許す」
ご機嫌は多少直ったみたいだった。
*
颯希が出張に行った。一週間で帰ると言っていたが、千紘にとって一週間がどれほど長いか、颯希は分かっていない。
米を炊き、レトルトの中華丼を温めた。お湯を沸かし、インスタントの味噌汁も作った。味はまぁ悪くないが、一人の食卓ほど味気ないものはない。テレビをつけると芸能人が食レポをしていて、千紘はそれを見て一人でうんうん頷きながら、機械的に飯を掻き込んだ。
風呂を沸かす間、電話機の前で待機してみたが、結局ベルは鳴らなかった。烏の行水で風呂を終え、髪も乾かさずに待ってみても、電話は沈黙したままだった。
テレビの音で静寂を誤魔化し、リビングでだらだらと時間を潰す。千紘から電話を掛けることはできない。颯希が掛けてきてくれるのを待つしかない。
夜も更けてきて、うとうとしてきた頃。唐突に電話が鳴った。千紘は飛び起き、受話器を取った。
「おせぇ!」
千紘は開口一番に文句を飛ばす。颯希が苦笑いするのが、電話の向こうから伝わってきた。
「まずは、もしもし瀬川です、だろ」
「うっせー! こんな時間にかけてくるやつ、颯希しかいねーだろ! ったくよぉ、オレがどんだけ待ったと思ってやがんだ」
「悪い。初日だから、色々な」
「おうおう、忘れてた言い訳かぁ?」
「忘れてたわけじゃねぇって。ちゃんと掛けただろ?」
「ふーんだ。遅すぎて寝ちまうとこだったぜ」
「悪かったって。明日はもう少し早くするから」
「何時」
「そうだな、十時には掛けるよ。それまでに飯と風呂と宿題済ませとけ」
「宿題ィ~~!?」
「ちゃんとやれよ。俺が見てなくても」
「やっ……や、やってっし!」
「ウソくせぇな」
「う、うそじゃねーって! ちゃんとやってっから! 心配すんな!」
「そうか? まぁもう遅いから、あったかくして寝ろよ」
「お、おう……」
「戸締り確認してから寝ろよ。鍵かけて、チェーンもちゃんと掛けろ。分かってるな?」
「あ、ったりめーだろ!」
「じゃあ、」
嘘だろ、もうおしまいかよ!? と千紘は内心で叫んだ。まだ全然話し足りないのに。話したいこと、まだいっぱいあるのに。まだ全然寝たくないのに。
でも、颯希の声は疲れていた。朝早くから長距離を移動して、慣れない場所で仕事をしたから、普段よりも疲れたのだろう。それなのに、千紘のことばっかり気にかけて。
「おやすみ、千紘」
「おやすみ、颯希!」
本当はもっと話したかったけど、颯希を心配させるのも嫌だし、千紘は空元気を装った。ツー・ツー・ツー、と切れた電話の向こうに聞こえる電子音が切なかった。
*
二日目の夜は、約束通り十時前に電話が鳴った。ワンコールで、千紘は受話器を取った。宿題はまぁ置いておいて、飯と風呂はきっちり済ませた。
「颯希!」
「千紘。元気か?」
「チョー元気だぜぇ! 颯希は?」
「俺は変わりない。飯何食った?」
「親子丼!」
「だけか?」
「あと味噌汁。お湯入れたらできるやつ!」
「一応ちゃんと食ってるんだな。野菜も食えよ。スーパーにサラダ売ってるだろ。好きなの買っていいから」
「颯希は? そっちでなんかうめーもん食った?」
「俺か? うーん……湯葉とか?」
「ユバ……?」
千紘が首を傾げると、颯希も電話の向こうで首を捻る。
「何ていうか、油揚げをめちゃくちゃ薄くした感じの……うーん、違うか。豆腐の仲間だ、たぶん」
「うめーの? それ。どーやって食うんだ?」
「大人は結構好きなんじゃないか。そのまま醤油つけたり、鍋に入れたりする」
「へぇ~。全然想像つかねーや」
「土産に買ってってやろうか。そうだ、土産何がいい? 欲しいものあるか?」
「つっても、京都んこと全然知んねーしなぁ~。どんな感じなん? こっちと全然ちげー?」
「そうだな、神社と寺がいっぱいある」
「なにそれ。つまんなそ~」
「罰当たりだな。結構楽しいぞ? 今回は仕事だから、あんまり見られないけどな」
「颯希はそーいうの好きなん?」
「まぁ、普通にな。混んでるとあれだけど、朝一とか行くと心が洗われる」
「あは、んだそれ。じじくせーの」
「誰がじじいだ。お前も大人になったらどうせこうなるんだ」
颯希は、京都の町のことを教えてくれた。祇園がどうの嵐山がどうの、宇治抹茶がどうのこうのと。一頻り話して、遅くなり過ぎないうちに電話を切った。今日は随分話ができたけれど、千紘はまだ物足りなくて、後ろ髪を引かれる思いで受話器を置いた。
*
三日目の夜。昨晩と同じく、十時前に電話が掛かってきた。学校で豚の目玉を解剖したから、その話をした。
「女子が一人倒れちまってさ~、大変だったんだ。あ、オレぁ平気だったぜ? でもすンげー生臭くてよ~。マスクはしてんだけど、オレもちょっとゲロ吐きそーんなった。あ、吐いてはねーからな? そこんとこは大丈夫だぜ」
「ん、大変だったな」
「そんでぇ、えっとぉ……」
電話の向こうがすごく静かだ。颯希もはきはき返事してくれないし。
「……颯希、もしかしてねみーの? つか寝てる?」
「……いや?」
「今の間何だよ! 絶対寝てただろ!」
「……まぁ、ちょっと眠い。ベッドにいるから、余計な」
気の抜けたような大きなあくびが聞こえる。
「でもお前の声聞きたいから、続けてくれ」
「んだよぉ、それぇ……」
千紘だって、颯希の声が聞きたくて電話してるのに。でも、疲れているのに無理をさせるわけにもいかない。
「い、いーって。話は後でもできんだし、さっさと寝ちまえよ」
「でもお前」
「いーからいーから! オレんことは心配すんなよ! また明日な、颯希」
「じゃあ……」
ツー・ツー・ツー、と電子音が虚しく響く。千紘は溜め息を漏らし、受話器を置いた。
颯希は今頃、ホテルのベッドで目を瞑っているのだろう。千紘は、空っぽのベッドに飛び込んだ。深く息を吸い込めば、颯希の匂いが鼻腔と肺を満たす。普段颯希から香るものがさらにぎゅっと濃縮された、胸が詰まるほど濃い匂いだ。
「ん……ふ……」
当然のごとく催していた。颯希の枕に顔を埋め、ベッドで身を捩りながら、千紘は自らを慰めた。
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