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桜の連理

   綺麗だ。  その日流星は、生まれて初めて誰かに対してそんな感情を抱いた。  相手は、この春同じクラスになった男子生徒だった。 ◇ ◇ ◇  辻家の家庭が崩壊したのは、流星が私立の学校の中等部に進級した春のことだった。  父が仕事で出向いた先で、運命のつがいに出会ったと言い出した。  これからは、その人と一緒に位したいのだと。  それから大人たちの間でどのような話し合いが持たれたのか、詳しくは知らされていない。ただ両親は離婚し、父は勤めていた祖父母の会社も辞めた。その後どうするのかは知らされなかったし、調べることも禁じられた。  元々神経質なところのあった母は、寝室から何日も出てこなかった。出てきたときにはひどくやつれていた。文字通り、水も喉を通らないほど嘆き暮らしていたのだ。  そんな顛末を目の当たりにして、流星が感じたのは恐怖に近い気持ちだった。  誰かを愛して、それを失ったら、人はあんなふうになってしまうのか。  幸い、姉も流星も持って生まれた性分は明るかった。父を失ってしまったことは哀しいけれど、いたずらに嘆いていてばかりいても仕方ない。  ふたりで少しずつ母を励まし、時間をかけて日常を取り戻していった頃、中学二年生になった流星の属性検査が行われた。  検査結果は、アルファ。  正気を取り戻しつつあった母は荒れ、流星の首を絞めた。  その日は姉が助けてくれたものの、母は流星に未認可の薬を飲ませるようになった。毎日母が用意し、飲むまで眠ってくれないから、飲んだふりでごまかすこともできない。  いや、仮に方法があったとしても、ごまかさなかっただろうと流星は思う。  最愛の人を失った上、子供にまで嘘をつかれたら、母があまりにも不憫だ。  高等部に進学して、ますます父親の面影が強く出るようになった流星の顔を見ると、母親が取り乱すようになった。  だから、祖父母や姉と話し合って離れて暮らすことを決めた。  高校生のうちから、設備の整ったマンションで一人暮らしなんて、羨む輩もいるだろう。実際自分は恵まれているほうだと、流星にはわかっていた。これで経済的な理由や他の理 由があって、別居が許されなかったら、母も自分ももっと壊れていたはずだ。  だから、親族所有のマンションは空いていたことにも、近くにいい学校があったことにも、アルファに詳しい医者がいたことにも、感謝しなければいけない。  けど俺、誰かを好きになったりはできねーかも。  アルファに詳しい医者のところに向かいながら、流星はそんなことを考えていた。  病院は川沿いの拓けた土地にあり、こんな田舎にしては立派な施設だ。病院に続く道の両側には桜が植えられていて、川風に名残の花びらを散らしていた。  流星は、思春期から母親に飲まされていた強い抑制剤の影響を調べる過程で、若年性EDとの診断を受けている。  恵まれた体躯に恵まれた容姿の持ち主だ。小学校高学年の辺りから、放っておいても人は寄ってきた。男も女も。  けれど流星はそれを特別嬉しいと思うことはなかった。  父に捨てられた母が消沈した姿を目にしていたからだ。  母は父にベタぼれだった。たとえ父が母の実家の太さに目がくらんだのだとしても、一緒にいてさえくれればいいと、割り切っているほど。  父も父で、まるきり愛情がなかったわけではなかったと思う。姉と自分、ふたりも子供をもうけたし、子供の頃はよく遊んでくれた。学校行事にだって顔を出し、所謂〈誰もが羨む幸せな家庭〉だったのだと思う。  それでも、たった一度の出会いで、そんなものは簡単に壊れる。  ひとりの人間を、めちゃめちゃに壊してしまう。  まー、そんなの見てりゃ、そりゃ勃つもんも勃たなくなるわな。  別に、一生使い物にならなくてもいいけど。  父と母を見ているとそう思う。  突然都会から編入してきた自分に、おかしな噂がつきまとっていることは知っていた。実際は真逆なのに、面白い。そう思ったから、敢えて否定することもしなかった。  本当のことを知って欲しい相手もいなかった。  そこそこ親しくする連中はすぐにできたが、どんなにねだられても家に呼んだことはない。正直に言うと、学校でつるんで話をしながらも、家に帰れば顔も思い出せなかった。  その程度の付き合いが一番楽でいい。それ以上はいらない。    どうせ遊ぶところもろくにない田舎にやって来たのだ。  せいぜい勉強に精を出し、一流大に合格してやろう。  そして早く自分で自分を喰わせられるようになって、母親の前から消える。  それが、アルファを憎む彼女に自分がしてやれる唯一のことだった。 ◇ ◇ ◇  綺麗だ。  その日流星は、生まれて初めて誰かに対してそんな感情を抱いた。  相手は、この春同じクラスになった男子生徒だった。  病院から出て来た彼が、川風に乱れた髪を押さえて木々を見上げる。  首を覆う辺りまで伸ばされた髪。女性の髪形でいったらボブに近い。どうかしたら不潔でずぼらにも見えてしまいそうなのに、艶やかな黒髪は彼に人形めいた美しさを与えていた。  物憂げな様子で乱れた髪と眼鏡を直す。その指も美しかった。  こっちにやってきて、初めて人の顔をまじまじと見た。  目が離せなかった。  父が出て行ったのは春。自分がアルファだと判明したのも春。だから流星は、春だからといって浮かれたことなどなかった。  なのに、そのとき桜の下で佇んでいる少年の姿にだけは、目を奪われてしまった。  声をかけたい。  そう思って一歩踏み出したとき、少女が彼の前に進み出た。  ――なんだ、いたか? あんなの。  いや、虚無から突然人間がひとり湧いて出るはずはないから、どこかにはいたのだろう。流星が少年――夏目すばるに目を奪われていただけで。  なにを話しているのだろう。知り合いだろうか。そう思いながら近づいていくと、どうやら修羅場なようだった。聞こうと思って聞いたわけではない。病院の門を出てすぐにそんなことが行われているから、どうしたって耳に入ってしまうのだ。    すばるは、告白してきた女子をにべもなく振っていた。  その上「吐く」って。  いつもなら、同じ学校の奴に干渉なんてしなかった。それも恋愛沙汰なんて。  なのに、どういうわけか振られた女子に自分を重ね合わせてしまったようだった。  ――なんでだよ。  自分でもおかしいと思っているのに、声をかけずにはいられない。 「いくら嫌いでも、吐くのはないわ」  ほとんど初対面に等しい間柄だったのに、つい責めるような口調になった。すばるも驚いたようで、眼鏡の下の瞳は見開かれている。  散り始めた桜を映した瞳は潤んでいた。  美しく、切なげで、苦しそうだった。  どうしてそんなことを感じるのかわからない。とにかくこいつと深く関わらなければならない、と胸の奥から何者かが訴えてくる。  「吐く」が比喩表現でないことを知ったのは、その数秒後のことだった。 ◇ ◇ ◇  マっっっっっっっっっジでありえねえ。 「吐く」という言葉を本気にしなかった自分も悪かったとは思う。  けれどまさか本当に吐かれるとは思わなかった。放置して帰っても良かったのだが、真っ青な顔で小さく「……ごめん」と呟かれると、そうはできなかった。  どうにか家の場所を聞き出し、連れ帰った。元々は祖母の家だというすばるの家は、古さこそあるものの、よく手入れされていて、居心地のいい空間だった。  TシャツはSNSのインフルエンサーである姉が「プロモーションのお礼って言ってもらったから、あげる」と送って寄越したものだ。  弁償させるつもりなど元々ない。ただ「早く帰って欲しい」という態度がみえみえのすばるが面白くて、ちょっとからかってやりたくなっただけだ。  そうして、あの薬袋を見てしまった。    吐かれた衝撃ですっかり忘れていたが、病院の前で出会ったのだ。それがまさか同じ第二次性を持つ者同士だったとは。  桜の下に佇む姿に興味をひかれたのは、こいつがオメガだったからなのか。  ――俺が正常なアルファだったら、もっとはっきりわかったのかも知れないけど。  こんな田舎で、まさかオメガと出会うとは。  父のことがあったから、オメガには多少詳しくなった。だから、薬袋に記された薬の名前、告白されたのにつれない態度、そして嘔吐――断片が揃ったとき、察してしまった。 「夏目って、もしかしてストレイシープ?」  そう訊ねたとき、すばるの瞳に浮かんだ哀しみの色があまりに深かったから、咄嗟に嘘をついた。親戚にアルファがいてさ、と。  それから無理矢理聞き出した話は、実に酷いものだった。 『おまえが誘惑したんじゃないよな』――  その言葉を耳にしたとき、流星の耳には、かつて自分が母から投げつけられた言葉がよみがえっていた。 『あんたも人を不幸にする属性なの』  俺には、わかる。  こいつの受けた胸の痛みが。 ◇ ◇ ◇  母は錯乱するとオメガとアルファを口汚く罵った。  何度も何度もそれを聞かされながら、流星はオメガを憎いと思うには至らなかった。  ただ『あんたも人を不幸にする属性なの』という言葉だけは、ずっと心の片隅にあったように思う。  俺は、誰かを不幸にする可能性がある、アルファ。  事実母は、流星が想定外のアルファに生まれついたことで不幸になった。  だから、時々は暗い気持ちが胸をよぎった。  俺は誰かを傷つけるためにアルファに生まれたのか?  すばるの恋人役を買って出たのは、自分ではどうすることもできない呪いを背負いながら、周囲に誤解されているのを見かねたからだ。  けれど本当は、自分がアルファに生まれたことで感じている罪悪感を救いたかっただけかもしれない。  すばるに避けられるようになって、考えた。  さすがにすばるの父親にまで反論したのはでしゃばり過ぎただろうか。  思えばあの少し前からすばるの様子は少しおかしかった。  俺の話が重かった?  その可能性はあるな、と思った。  いくら同じバース持ちと言っても、すばるはオメガ、自分はアルファだ。  すばるを傷つけた一連の事件の元凶。    俺はやっぱり、誰かを傷つけるために生まれたんだろうか。  それでも、どうしてもこのまま疎遠にはなりたくなくて、すばるのあとを追いかけた。  激しい雨がすばるの華奢な体を容赦なく打って、貼り付いたシャツから素肌が透けている。  不謹慎にも、綺麗だと思った。  自分にそんな感慨を抱かせるのは、この世ですばるだけだった。  そうしてすばるは言ったのだ。 「噛まれるなら、流星が良かった」  ――その瞬間、すべてがわかった。  どうして本来ならアルファに生まれつくはずもない自分が、アルファに生まれついたのか。    すべては、すばるに出会うため。

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