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09.感情の香り
「ごっ、ごめん……」
「しつけぇんだよ」
忌々 し気に奏人 は言う。僕はただ謝ることしか出来ない。
「うわっ!?」
足が勝手に動き出した。カニさん歩きだ。バッグを掴まれてる。仰向け気味なのが情けなさを二割増し、三割増しにしている。
「かなっ―――」
「あ~! うるせぇうるせぇ!!」
奏人が中扉を開けた。扉が跳ね返ってくる。鈍い音を立てて僕の手足にぶつかった。
「あっ……」
息つく間もなくバッグを取られた。いや、これは奏人のだから正しくは強制返却になるのか。
「おらっ」
背中を押される。正面には食卓があった。チンジャオロース、卵スープ、ご飯……今晩は中華か。食欲をそそるごま油と、オイスターソースの香りがする。あ、鳴る。思った直後にお腹が鳴った。顔が熱い。
「ここは素直だな」
ふわりと甘いミントの香りがした。後ろからポンポンとお腹を叩かれる。
「うっ……ごっ、ごめん……」
お腹を絞められた。肩に奏人の顎が乗る。
「結構、結構♪」
拍子抜けする。あまりにも嬉しそうだったから。
「ん……? あれ……?」
ない。テーブルの端から端まで見てみる。やっぱりない。
「……肉じゃがは?」
大家さんは尚人 ――もとい奏人に渡したと言っていた。保存にでも回したのかな。
「捨てた」
「はっ……?」
言ってのけた。何の悪びれもなく。
「ひどいよッ! 病み上がりの中、一生懸命作ってくれたのに!」
これまでも何度か大家さんにご馳走になったことがあった。その時はちゃんと食べてたのに。
「どうして……っ」
「さぁな」
答えるつもりはないらしい。単に虫の居所が悪かったのか。
「ゴミ漁んなよ。次の奏人の大会には、お前が出るんだからな」
反対に、次の尚人の大会には奏人が出る。大会には代わり番こで出場。そういう決まりになっている。
「……今度貰った時は、僕が全部食べる。だから、捨てたりしな――」
「断るよ。俺が俺の時に」
「そんな――」
「競技者だってことは向こうも知ってんだ。納得すんだろうよ」
断れば奏人はまた捨てるだろう。僕が受け取ったとしても結果は同じだ。ならいっそ貰わずにおいた方がいい。けど、1つだけ。どうしても譲れないことがある。
「五輪が近付いてきて、その関係で色々と制限が付くようになった。そう伝えてもらえる?」
与えて貰ったすべての厚意が偽りだとは思えない。いや、思いたくないから。
「……ったく」
大きな舌打ち。あからさまな溜息。譲歩してくれる時に見せるサインだ。ああ、良かった。ほっと胸を撫で下ろす。
「あっ……」
腹の虫が鳴っている。控えめなその音は後ろから伝わってきた。
「ごめんね。いただこうか」
食卓に向かって歩き出す。奏人の腕がはらりと落ちた。それと同時に漸く気付く。僕の椅子の上に青紫色の袋が置かれてる。サイズはざっと見B5ぐらいだ。
「そうだそうだ。漫画。ありがとね」
奏人が今日、オタメイトに寄ったのはこのためだった。袋には皺1つない。丁寧に持ち運んでくれたのが見て取れた。
「収納スペースには限りがあるんだからな」
「うっ……」
始まった。受け取りに行ってもらう度に言われる定番のお小言だ。
「ワンピは特別だから」
「ワンピもだろ」
返す言葉もない。微苦笑で誤魔化す。
「後で貸して」
「…………」
ずっと言わなければと思っていた。でも、言い出せなかった。嬉しかったから。お礼を言って終わりにする。まずはここからだ。
「もう十分だから」
「あ?」
「今までありがとう」
奏人は漫画、アニメ、ゲームの類に関心がない。むしろ苦手な方だと思う。それでも手を伸ばしてくれた。僕の孤独を埋めるために。
「奏人は僕なんかよりもずっと忙しいんだから」
「…………」
「こういうのに時間を割くぐらいなら、ちょっとでも長く寝てほし――」
突き飛ばされた。慌てて椅子の背もたれに掴まる。その内に、奏人がすたすたと歩き始めた。僕の向かい側に向かって。
「……見てえんだよ」
ドカッと乱暴に座る。不機嫌顔。いや、むくれてる?
「その気持ちだけで十分――」
「漫画じゃねえよ」
何だろう。奏人を観察する。目の前の奏人はもちろん、これまでの奏人も。拾わなきゃ。きっとどこかに答えがあるはずだ。
「お前、笑うだろ。この手の話をしてる時だけは」
「えっ……?」
衝撃だった。嘘だ。そんなこと。左手で自分の頬に触れる。
「……笑ってない……?」
外では笑ってない。そんな立場にすらないから。でも、奏人の前では自然にしているつもりだった。
「全っ然」
奏人のその態度は、お茶らけているようでいて、寂し気でもあった。
「……ごめんね」
癖になっているのかもしれない。口角を上げて奏人を見る。奏人はそんな僕の笑顔を見て、表情を歪めた。偽物だ。そう捉えたんだろう。本物だって、そう思ってもらえるような笑顔を作らないと。楽しい。幸せだって気持ちをちゃんと表現するんだ。
「……ミーティング始めっぞ」
奏人は言いながらスマホを操作。テーブルの上に置いた――。
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