本当に、どうしたらいいのだろうか。 　こんなに頭がふわふわしてドキドキして仕事に集中できないのは初めてだ。 「榊さん、どうしたの？　今日なんか変ですよ？　大丈夫？」 　京が心配そうに俺の顔を覗き込み聞いてくる。 　京はノブじゃない。頭ではわかっているが身体が反応する。心臓が跳ね上がる。 『壱成……好きだ』 　ノブの声が、こだまのように頭の中で響いている。 「す、すまない。すぐに車を出すから。みんなは走らずに降りて来てくれ」 　ノブを想いながらボーッとして、次の移動を完全に忘れていた。マネージャーがスケジュールを忘れるなんて失態にもほどがある。 　今日は朝から小さなミスをくり返し、そのたびに京がすかさずフォローをしてくれた。そんな京を意識せずにはいられなくて、俺はまたミスをする。 　京はノブじゃない。京はノブじゃない。何度も自分に言い聞かせた。 　 「榊さんも慌てなくていいよー。五分押しくらい大丈夫っしょっ」 　そう言って、にっと笑う京の笑顔に顔が熱くなった。 　他のメンバーも「うんうん、大丈夫」と口々に言ってくれる。　 　俺は「本当にすまんっ」と頭を下げ、慌てて楽屋を出て駐車場を目指した。 　俺は今日、ノブと京の違いを一日中確認している。 　そうしないと仕事にならない。そうしても仕事にならない。 　ノブの黒い髪と目、落ち着いた物腰、一緒にいればちゃんとノブだと認識できていた。 　それなのになぜ逆は無理なのだろう。 　みんなの会話を聞いていても、無意識に京の声だけ拾ってしまう。京の姿を目で追ってしまう。 　そして、そのたびにノブを思い出しては切なくなる。 　京はメンバーの中でも一番俺になついていて、可愛い弟みたいな存在だ。 　意味もなくそばに寄ってくる。いつも近くにいる。 　いままではそれがただただ可愛かったが、いまはその近い距離が悩ましい。 　ノブの熱を思い出してしまう。会いたくてたまらなくなる。あの優しい腕にまた包まれたい。 　好きになった相手に初めて抱かれて、俺は完全にノブに溺れていた。 　 『壱成……好きだ』 　 　ノブの言葉が頭から離れない。 　好きだと言われて、心が震えた。本当はすぐにでも答えたかった。 　けれど俺は、俺じゃない誰かに勝てる自信がない。いつかまたその誰かがノブを取り戻しに来たとき、きっと別れが来る。身代わりは身代わりでしかないんだ。仕方ない。 　その誰かは来ないかもしれないが、来るかもしれないと怯える毎日になりそうで怖かった。 　恋人として愛されたら、別れるときに耐えられそうにない。 　それなら俺はセフレのままでいたい。 　セフレとしてでいいからノブのそばにいたい。それで充分、俺は幸せだ。 　本当の名前は知りたいが、偽名のほうがセフレらしくていい。 　俺がこれ以上勘違いしないですむように、ずっと偽名のままでいてほしい。 　 　　 　散々な仕事ぶりも、数日でなんとか落ち着ついた。といっても、ミスが無くなっただけで、京を意識してしまうのは相変わらずだ。 　ノブに似ているのだから仕方がない。そう開き直ると気持ちが楽になった。 　ただ、京が変に思ってはいないかと、それだけが心配だった。 　ノブにはもう一週間以上会っていない。　 　次はいつ会えるだろうか。 　俺たちはただのセフレだ。きっとまだまだ会えないだろう。　 　まだ鳴らないスマホを眺めて、ため息をつく。 　ノブに会いたい……。 　デートの日、帰り際にノブから電話番号を求められ紙に書いて渡した。 　修理が終わったら本当に連絡をくれるんだ、と嬉しくなって頬がだらしなくゆるんだ。 「いつでも、したくなったら連絡してくれ。出られなくてもかけ直すから」 　ノブが会えるときにはいつでも会いたい。だからそう伝えると、ノブはちょっとだけ眉を下げたあと優しく微笑んだ。 「会いたくなったら、連絡する。……つうか、会えなくても、かけていい？」 「……っ、もちろんだ」 　会えなくても声が聞けるんだと思うと、もうそれだけで幸せで胸がいっぱいになった。 　自分がこんなに恋に夢中になるなんて想像もしていなかった。いい歳をして自分で自分が恥ずかしい。 　 　もうすぐ日付が変わる。また今日も電話は来なかった。 　落胆して、それでも俺はノブの言葉を信じていた。きっとまだ修理が終わらないだけだ。 　知り合ってまだ間もないのに、なぜか信じていられる自分が不思議だった。 　眠りにつくギリギリまで、俺はしつこくスマホが鳴るのを期待して、そのうち意識が途切れた。 　 　着信音が鳴っていた。俺は画面も確認せず、ぼんやりとした頭で電話に出る。 「もし、もし……」 『あ、ノブだけど、えっと、寝てた……？』 　聞こえてきた声に一瞬で目が覚めた。ノブ。ノブだ……っ。 「いや、寝てない……っ」 　答えてから時計を見た。日付が変わってそんなに経っていない。ベッドに入ってまだ数分だ。 『本当は寝てたろ？　声が可愛い』 「か、わ……っ。本当に寝てない。ちょっとだけうとうとしてたんだ。……スマホの修理、終わったんだな」 『ん。やっと。連絡遅くなってごめんな？』 　ノブの優しい声が俺の耳を溶かす。 　久しぶりに聞く、元気な京よりも少し落ち着いた優しいノブの声にホッとする。 　 「謝る必要はないだろ。……ノブはいま、なにしてた？」 『あ……実はさ。いま、壱成の家の前なんだ……よね』 「えっ？」 　家の前？ 　俺はスマホを握ったまま慌てて窓まで走った。