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鉄線の融和
部屋の移動は量刑や作業担当の変遷に伴い度々あったため、いつでも移れるよう荷物は最小限に纏めてある。
休憩後居室で待機していると、山下が迎えに現れ、人の良さを滲ませる目許で皺とともに頷いてみせ、室外へ招いた。
目線の下にはあるが、山下の肩幅は柔道の有段者らしく横長の甲冑のような肉厚を帯びている。
収監当初から既に古参の風格を有しており、それ以上の昇進は望んでいないのだろう、盤石な看守部長の地位を守りつつ、風貌からも、家庭的な柔らかさが漏れはするが巌のような安定感は依然健在だった。
山下は、入所以来居棟としてきたD棟を抜け、外気が通過する渡り廊下を潜り始めたため、俺を思わず声をかけた。
「山下先生、どちらの棟へ……」
「うん。開放寮」
「……、」
山下は振り返り、人前ではそれでも控えているらしい、潤沢な人柄の温かさが目だけではなく、今は豊かな口許からも溢 れていた。
「おめでとう。仮釈、決定だ。月末の31日。あと二週間だ」
長かったなあ、と肩に置かれた山下の指の厚みを感じる。
「長かったなあ。やっと、嬢ちゃんと嫁さんのところへ、挨拶に行けるぞ」
腕を伸ばし、親族の若者にでもするように、肩でさすられる指の摩擦から、柔らかな微熱が火をおこすように生じていく。
「高階、頑張ったなあ。腐りもせず、ひねもせず。厳しいこと、沢山あったよなあ。
みんな、見てたぞ。お前が負っている重いもの、投げ出しもせず逃げもせず立ち向かっていったのを、俺だけじゃない、みんな、知ってるぞ」
刑務官と囚人との間には、絶対的な壁がある。
刑務官の御法度は、囚人との過度な『馴れ合い』だ。
時には情を以て接することも要するが、そこに歪 みが生じて、甘え、築きあげてきた清浄な精神の綻び、更生を前にした滑落を見出してしまっては、惨たらしいほどに全てが返しのつかない水泡と化す。
いくらこころを許したい、開きたいと懐を緩めようとしても、その先には、決して崩されはしない鉄線が必ずあるのだ。
それは無論承知しているし、不当と思える言動をとられたことも、正直幾度もある。
だが規律や縦の結束が強固な組織に属していた身としては、そこは然程気に留めるものでもなかった。
というより、誰も信じず、信じようとしていなかった。
罪を犯して、塀のうちに堕とされた身で、信じたいという思念自体持つ資格がなく、また信じたいと思えるものなどここにも、どこにもないと、精神 を閉ざしていた。
けれど、底の底ではそうではないことを知っていた。
情のない指導でひとは縛れない。
官でも囚でも、誰であっても、行きつく先は、 ひとはこころが宿る『ひと』なのだ。
かつての仲間。そしてここでも、幾たびも俺 にふれてくる人たちがいた。
山下は、担当になったこともなく、とりたてて口を利く機会は薄い存在だった。
それでも、言葉をかけずとも長年俺の変遷を影ながら見守ってくれ、今こうして、身体同様篤い情を持ち合わせているのだろうが、それを惜しみなく労りに表して、穏和な眼差しで見上げてくれている。
「…………有難うございます」
身内に湧き上がるものを堪えるように、眼の際はやはり熱くて、滑稽なしかめ面にきっとなっていた。
山下は豪快に相好を崩す。
「どうした。まだ早いぞ。あんなにしんどい目に遭っても堪えてきたのに、もう耐えられんか。
ここからが、大変なんだぞ。あと二週間も、内と外への折り合いをつける、勝負なんだぞ」
言葉の深層には捨ておけない事実が含まれている。けれど肉感あふれる腕への張り手が、それを打ち消してくれるようだった。
「あまりへらへらする訳にもいかないがな。ここは素直に、おめでとうだ。
もう定年まで後がない、生きた化石からの激励だ。示しがつかんと叱る奴もいないだろう。後は園山たちや、若く出来る奴に任せておけばいい」
年が明けてから、園山と顔を合わせていなかった。
彼はここ数年のうちまた階級を一つ上げており、今年に入り、俺の担当から外れた。
受刑者にも一目で判るように、先の副看守長から階級章に金線が入る幹部クラスだったが、
今はここにいる山下より二階級上の、名実ともに『副』の取れた管理職の看守長だ。
俺のような一受刑者に関わっている立場ではない。在所中から、転勤で数年いない時期もあった。本格的に管理職へ連座して、今春にはまた異動、昇進を控えているのかも知れない。
刑務官の処遇を、受刑者に逐一告知する事情など存在しない。
もしかしたら、このまま、顔を合わせぬまま門外へ発つ日を迎え、外の荒野のなかへ埋没していってしまうのかも知れない。
社会のなかでは、そういった情のすれ違う別れがあることも、年を経るにつれ心得ていた。
それでも、同じ時期にこの地に来て、折々の、俺の芯に迫る場面に立ち会っていたのは、まぎれもなく彼だった。
せめて、一言でも感謝の念を伝えられたら……という胸の掛かりをおさめつつも、山下に招じられ渡り廊下を抜けていく。
振り返れば、長きに渡りその地に留められていた、薄墨色の塔の巨きさを、空の雲にかかるその程から、改めて知った。
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