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春のかをり

 あくる朝、予報通り穏やかな春の陽射しが軒先の芝に温かな光を含ませていて、土曜で刑務作業も休みだから、気温が暖まった頃合いに庭へ出て、洗い物に次いで布団や寝具を干した。  労働のため、かつては手の筋や腰が痛くなるほどの作業として繰り返してきたが、自分のため、時間をゆるして自分の調度を整えているということに気づくと、個としての存在を圧せられてきた身として、こころの充足、改めて自身の肯定の喜びを促されているような、高くなってきた陽が背を通して胸にも沁みこんでくるようだった。  外で衣類を干していると、隣で姿勢正しく、細身の体で機敏に敷布を伸ばしていた(ひろ)さんの横顔を思い出す。 『もう男どもの汗やら脂やらが染みついてて、ちっとも汚れなんか取れやしないけどさ。 淀んだものが、ぴしっとなるのは好きね。せめてこれくらいは、清廉でいたいものだわ』  爽快な蒼空。弛みを引き締めた、清潔な布。  俺も好きです。戻れるのなら、そうであっていたい。  果たして、心中にいつもいた人とは逢えたのだろうか。  たおやかに翻る洗濯物、清々しい空の一点を見据えて一礼をし、部屋に戻った。  ひとの環境の向上に対する順応性は、時として不誠実なほどの有能を見せる。  入室時、驚きと新鮮を持って踏み入れたこの部屋も、夜を再び迎える頃には、既に自分の基準値のなかへ受け容れていた。  もう三畳の房を居室として捉えていない。戻る念頭も消えている。底の底まで一度墜ちて、もうこれ以上墜ちるところも、失うものもないと思っていたが、浮上したと見える環境にいっとき置かされているのであって、未だ底のまま始点に立たされているのを、忘れてはならない。  昨年のうちに衛生係も降りて、三種四種の受刑者が占める作業場への出入りも少なくなった。  不要な刺激を与えてしまうため、開放寮での居住は勿論進んで口に出していない。  最後の勤めを、出来ることは何でもして、跡を濁さず完遂したかった。  夜、寮に戻ってからは、公務員だった父の働きかけ、昔の同僚の力添えのもと、信じられないことにまた消防に携わる職への取り付けがかなえられていて、資格や職務に関する勉強を、近年一からやり直したものの復職に向けた詰めに掛かっていた。  行き合う刑務官もこの頃は皆穏やかで、出立の日に向け緩やかに、静かに時が流れていく。  眠れるだろうか。元いた独居房で敷かれていた、弾力を返さない畳の直の感覚を伝える不快感はもうない。寝心地の悪さのためではない、寝返りを打つ。  開けた眼裏(まなうら)に、塀の外で俺を待ってくれている、希望のあかしである人たちの顔が浮かぶ。  千景、陽まり。父、母。親族、友人、昔の同僚(なかま)たち。  そして最後には、この地で出会って、別離(わかれ)ていった人達の姿が、やはり戻ってくるのだ。園山には、とうとう今日まで顔を合わせる機会が得られなかった。  薄暮れ。宵に溶けてしまう前に、かつては毎日通うように足を運んでいた、グラウンドに立つ桜の樹のもとへ向かった。  今年は、穏やかな日和が続いていて、既に五分咲きほどの桜のほころびが霞のような紫の翳りのなかにも見える。  そして、いつか、いつもそこに立って俺を見上げる黒い朝露のような瞳が瞬いていた場所へと目を向け、その前の木肌に視線を移す。  まだ、その字、その文字が綴った言のたま、想いをひめて解き放ったやさしい歌が、風雨にさらされ、時の年輪を幾たびも刻んできたのに、些かな文字の識別の崩れも見せずに、遺されている。  その文字に指を触れ、樹皮に守られたそこへ俺は額も添えた。  天川が遺した連なる息吹。  そこからは、春のかをりがした。  あの時の、俺に伝えたい。あの朝、春を迎えて、お前を喪って、咽び泣きこの場所に(くずお)れて伏した俺に伝えたい。  嘆きはきっとやむ。ここまで、来たと。  お前の想いを抱き止めて、溢すことなく、ここまで、追ってしまえばと幾度悶えることはあったが、それでもしがみついてここまで来たのだと。  お前から託されたものを、手放したくなかった。  その想いで、ここまで来たんだ。  眼を閉じると、最後に見た天川の残姿が脳裏で結ばれた。  初春の寒さに竦みながら、最後には蕾が彩る桜の樹の下で、涙袋を浮かばせ嬉しそうに笑っていた。  屋内に戻るため、振り返り、控えめな微笑みを繰り返し撒くように俺に見せながら、駆けていった。  そこで、俺のなかの彼の姿は途絶えている。今までは。  そこで、終わりじゃない。  あの時、扉のなかへ消えたお前の姿は、またそこから、あたらしいひかりの彼方へと、 まだ見ぬ、その腕に抱きとめることの出来なかった景色を見るために、解き放たれるんだ。  明日、俺は、この身がやがて屍と堕ち、尽きていくと失意の底にいたこの地を、 逃れることの叶わない、救いを見ることはきっとないだろうとこころを(とざ)していた、 無窮と諦めていた歳月、枷に繋がれていた檻のなかを、 その外へ、この塀のうちから、その先の世界へと出る。

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