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いのちを賭すものがなければ

 これまで、何度も楓は悲痛と苦しみの涙を尽きるほど流してきたに違いない。  俺に明かしてくれた数々の情景のなかでもそうであったし、 だが、俺と邂逅して(出会って)から、一度も見せることのなかったその涙を、楓は今、遂に初めて流している。  違う。そうじゃない。解っている筈だ。 貴女なら。  強く、そう呼びかけて彼女の肩を掴んでしまいそうな、そして彼女の頬から降るきっと熱いだろう涙を見つめるうち、 また俺も胸を突き上げられるような衝動が込み上げたが、 彼女の明かして強く渡したいものは、まだこれだけじゃない、 その証拠に、降り零れた涙を、彼女は払うように顔を背けて、確かに拭った。 「…………ですが、ただ兄も、無気力と世界への昏い拒絶と絶望に呑み込まれるままに、その人生を途絶えさせた訳ではありません。 抗えなかったとはいえ、自身に溢れた身勝手な憎悪のために、実の両親を手に掛けた感触と伝播していく(わざわ)いは、どうしても拭えなかったようで、 その結着と償いを、自分の生で返すことに、——逃げずに決めました。 兄がきっと、惑って、苦しみぬいて、ふるえを圧して得た結論です。 とてもその境地など推し量ることは出来ませんし、酷なまでに……、 潔かったと思います。 私は、そこを、そこまでも。 ……もう『否定』したくはありません」  俺を見つめる楓の瞳から、また透明な熱い滴りが降りて、それは、兄への迷いない肯定に包まれながらも、 悲しく、兄への愛惜をいっとうにいつまでも表し続ける、くるしい"否定"に満ちていた。 「……それだけでなく、人間(ひと)としての矜持をつらぬいたほかに、兄は、最後に『ひと』らしい瞬間をたくさん見せてくれました。 私のことも、誰をも、遠ざけてこの世から自分をなくして仕舞おうと、こころを鎧っていたようですけど。 最後は、昔から知っていたように私にも笑ってくれましたし、……大事に息づいて、兄が、きっと初めて知って、胸に温かくしまっていたもの……。 自分のこころを、素直にあらわしてみること。 ひとが、ひとである証しの、誰かを想い、焦がれて、その生命(いのち)を自分のためではない誰かのために、(とも)させたもの……。 それらは、一体、 (なん)のために生まれてきたのか…………」  熱い滴りに籠められていた激情が、いまは和らいで、和らぎのなかに優しさがとけた潤みに転じて、俺を認める。 「高階さん。 それはきっと、あなたですね」  何もしてない。 俺は、何も。  ただ、俺だって、彼のことが知りたくて、近づきたくて、 彼の闇も、苦しさも、終わりがすぐ傍にある刹那の世界だとしても、 罪深さも、醜さも、それらはまやかしなのではと想えるほど瑞々しい彼の息づかいも、まるごと全部連れて、その()を取るように、 ただ一緒に、過ごしていきたかった、だけなんだ。  与えてなんてない。俺は何も。  俺だって、一歩外れるまでもなく、この胸に張り巡らされていたのは、底も希まない空虚だった。  それを彼があの黒い瞳に、俺を映して、そのささやかなひかりが、俺の自分でも気付いていなかった胸の(こご)りに降りて、溶かして、 あの閉塞された世界のなかで、希望を、ひかりを、前へ、だなんて大仰なものなんか求めていなかった。  ただ、そのを、生きている。  振り返れば、お前がいて。一緒に。控えめな瞳が微笑んで。  それだけで良かったんだ。  いま、生きていて しあわせだな。  そう、想えたんだよ。 お前といると。    与えてくれたのは、彼の方なんだ。俺じゃない。  俺じゃ、ないんだよ。  それは、楓にも伝えられたならと思った。  だけど、下手くそな歌と一緒で、どうにも不調法な、ちりぢりで湧きあがりそうな俺の想いは、少しでも吹き出たらとめどなくなりそうで言葉が出て来ず、喘ぐような息を()くばかりで、 楓は、それをも容れてくれるような微笑みを浮かべていたが、そこへまた淋しげな色が寄せられて、目許の潤みも陽光にひかる。 「……私だって、それは、どんなでも兄には生きていて欲しかったです。……当たり前です。 兄は、どうしても罪に(まみ)れた自分と、私を添わせることを、許せなかったようですけど……。それでも、良かった……。 私には、兄をこの世界に引き上げて(とど)め置く力が、なかったんです……」 「……それは違います。天川は、家族ばかりか、滅多に他人を口にすることはありませんでしたが、 貴女のことは、貴女のことだけは、想いこそ口には出さずとも、この世に残している、たったひとりの、唯一ひとらしい情を醸すことの出来る、 同じ血で繋がれた、優しさと浄らかさを向けられる結晶のような存在であると……、 ひとかけらの言葉のなかからでも、それが、充分に伝わっていました」 『……今日は、妹が来るかも知れないから』  照れを後ろ手にしても断りを告げる、(はじ)らいの横顔が浮かぶ。  俺の不得手な言葉では、傷みの癒えにもならなかったろうが、それでも楓は淡く微笑んで、瞳の滴りが零れ落ちることはなかった。 「……もっと、早く会えていたなら。高階さんのような存在と、いえ、 高階さんと、兄が、もっと早くに会えていたならと、幾度も、願うようにさえ思っていました……」 「……」 「ですが、互いに、いのちを賭す覚悟での罪を負わなければ、 出会うことはふたり、叶わなかったのですから……。 かなしく、不思議な(えにし)ですね…………」  だからこそ無二で、忘れられる訳がないんだ。彼は。  この桜のように。  繰り返し季節(とき)を巡って、ひとびとを乞い焦がらせる、 だけど俺のなかの(はな)は、ひとときも零れずに、 その姿のままでいまも(とお)るように咲いている。

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