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歌より胸をうつものが

「ご出所されたばかりの足許を、随分とお引き留めしてしまいました。 今日高階さんにお会いしたかったのは、こちらをお持ち頂きたい、ということもあったのです」  バッグから取り出され、雅やかな褪紅色の布地に包まれて開いて見せたのは、数編の紙束だった。  差し出されて、封の表書きにある『楓さま』という、かつて一度目にして、胸に刻みこまれている柳のようななめらかな字に、こころを()らわれる。 「これは……」 「房内の兄から私宛に届けられた、手紙です」 「そんな……! これは貴女に遺された、お兄さんからの大事な軌跡なのでは……っ」 「はい。あきらかにに宛てられた内容で、きっと兄も遺していて恥ずかしくないようなものでしたら、勿論大事にとって置いてあります。 ……ですが、いつの頃からか、書かれている内容が、私宛でありながら、どうも実際はのでは……? と思われるようなものばかりで……。 大して(とし)も離れておらず、収監中の身にありながらこまごまとした"兄"目線は健在でして。 『俺と違って、お前もいつかは倖せな結婚をするだろうから』 『結婚するとしたら、安定した職業のひとが絶対良い』 『特に、公務員なんかの。ひとの役に立てる仕事が出来るひとは、尊敬出来て、本当に素晴らしいから』 『身体は丈夫で、大きくてしっかりとした、健康的なひとで間違いない』 『優しくて温かくて、子供好きなひとなら、なお安心だろうなあ』」 「……」 「『ちょっとくらい、鈍かったり、男って大体そういうもんだ。 自分の好きなものに夢中で、気持ちに気づいてくれない、なんてこともあるかも知れないけど、仕方ない。 遠くから見守ってあげるくらいで丁度良いんだから、くよくよ悩むことなんかないように』」    聴くたびに、何だか口を挟めなくなって、流れるように辿られる楓の言葉を、ただしぱしぱと見守っている。 「こちら、何か『お心当たり』、ありますでしょうか? 全く、どこに向かって、"何"を見て書き連ねているのやら? 私のことは、私で決めますのに。私へでなく、告げに告げない想いを持て余した、の振り返りであるとしか思えません。 ……『悩むことなんかない。帳消しって、あるだろ。 どんなに悩んで、黒い感情を抱えて、もう離れようと決めて振り返るのに、 別にそのひとは、何も特別なんか撒いていない。 ただ『自分』を見て、にこにこと笑って、存在を認めてくれているだけなんだ。 その笑った顔を見れば、全部が帳消し。そういう存在って、()るんだ。 薄暗くて冷たいところにずっと居たと思ってたのに、 本当におひさまを浴びたみたいに、嬉しくて、どきどきして、 ああ、生きてるってこんな気持ちになれるんだって。 それを見ていたら、何も怖くなくなるんだ。 ——(あった)かい』」  そんなこと、言われた事もない。誰にも。千景(ちかげ)でさえも。  その『言葉』を溶きこめば溶きこむほど、ぼわぼわと頬に熱が籠ってきて、年甲斐もなく、 その紅潮を隠すように口を覆って、ついには楓の(おもて)を直視出来ないまでになっていた。 「ふふ」  中年の恥ずかしい羞らいを、楓は柔い余裕で見守り、つ、と歩み寄って、 「やはりこれは、(さく)『先生』にお戻しすべきものであるかと」  ぽん、と確かな手応えを与えて、大事に包まれていた手紙の束が、俺の胸にと押し当てられた。 「ここには、私の歌などより、きっと高階さんの胸をうつものが、星砂のように敷き詰められています」 「本当に控えめで、物静かで面倒見の良い、私には自慢の兄でした。 その兄を、すすんで本を手に取るなんてことはなかったのに、歌を詠む、だなんてことを教えて、 わざわざ使いもしなかった教科書を取り寄せたり、歳下の妹相手だという分別もつかないほど、 無自覚に名前を漏らして惚気を繰り返したり、 とてもひとに見せるのも憚られる黒い情動を剥き出しにさせたりして、 感情の饒舌な、訳の解らない想いの骨抜きにして仕舞って。 その責任は、 ——きちんと朔先生の方で、とって頂かないと」  とお香から楓へと戻ったその女性の瞳が、春陽の煌めきを瞬かせて俺を仰ぎ、 よく似た誰かのそれと、確かにそっと、重なった。 「——…………はい」  このいらえを実直と違えたものにしてしまうことは、許されない。  だけど俺の胸に託されたこの紙片たちは、不思議と確かな温かみを伴なう重さで、俺はそれを掌で抱くようにして、 ずっと知っていたような、いつか答えを返すべきと予期していたそのときを、いまゆるやかに感じながら、 楓と、遥かで直ぐ傍に添ったその魂の目を見据えて、俺の真っさらな応えの言葉を、返していた。  見届けた楓は、「ああ、」と携えていたものの下りたような吐息を漏らし、 淑女らしからぬ屈託なさで、手持ちの日傘とともにくるりと翻った。

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