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やれやれ

 払拭しきれないような憂いを浮かべた眼が、はたと見開かれた。  認めていた位置から、ほんの少しずれた、まるで傍らに、『何か』を見つけたかのように、 食い入るような眼がそこを覗きこんでいる。 「…………」  思わず触れてしまいそうだった指を、押し留めたように口許へ退いて、 そこにあるもの、まるで、そこにこめられているものを、 こわさぬように、だが見届けずにはいられないという衝動を、彼自身の沈着さで(くる)んで、 なぞるように、真摯に漏らさずに汲みとろうと、凝視に似た視線を照射させている。 「…………あ、」  腑に落ちた。  という風に、ひそめられていた彼の眉が、強張りを(ほお)った。  束の間、常に引き締めを強いられている表情が、ぽかんとそれを置き去りにして、素の姿を露わに見せる。 「……ははっ」  思わず。覚えず。やられた。  ない混ぜになったそれらに次いで、噴き出てしまった零れ笑いを、園山は掌のなかに抑えた。  抑えて、唇を解放しても、持ち前の口角の上がりを下がらせることが依然出来ない。  この塀のうちでは、鉄の仮面を被ってずっとそれを圧し、漏れ出でそうなあらゆる情動を総て封印してきた。  だが、もう良いだろう。今は。  だって、してやられた。  永年、何も知らずに見つめ続けてきたものの、ひめられた、こっそり連ねられていた『存在』に、 いま、漸く気がついてしまったのだから。  首を振って、湧き出しそうな感情を腕を組んでやり過ごす。  それでも、解き放った表情のまま、ついに腕も解いて天然の天井を仰いだ。  透明と多彩がいり混じった木漏れ陽の差す、桃源の隙間から、本当の宙へと繋がる、澄みきった彼方が拡がっている。  桃色の天辺と、その(さき)になにかを認めた彼は、安堵、慕わしさ、こころに伏せ続けてきた情を。  ひとが本来持つ感情そのままの微笑と声音を、薄紅の膜のなか晴れやかに滲ませて、呼びかけるように、空へ放ったのだ。 「やれやれ」 「…………園山さあーん……、園山看守長ーお……、」  屋内から、聞こえの良い言い方をすれば、長閑な春の(ひる)前にそぐう、間延びした声が近づいてくる。  やさぐれた舌打ちを隠さず、園山は下ろしていた制帽を被った。 「……園山さん、こんなところにいたあ! もう、勝手に休憩、挟まないで下さいよ! 申し訳ないですが、黄昏れてる暇は園山さんにはないんですからね! 何せ今日は、園山さんの勇姿を一日傍で拝める、最後の日なんですから! ……あーあ。看守長って呼んじゃったけど、明日から園山矯正副長かあ。支所だったら支所長クラスでしょ。 いつも僕の隣にいた園山さんが、一気に管理職のスターダムに昇っていく感じ……」  小さく駆けてきた奥寺(おくでら)看守の、後半はぼやきを零しつつも、まだ紅顔の面影を宿す精気は、若さも相まり、春の陽射しを受けて眩しささえ覚える。  奥寺は園山の眼前の桜に目を留めて見上げた。 「やあ、満開だなあ……。ここでの桜、見納めに来たんですか……? 園山さん、この樹、お気にいりですよね。何か想いいれがあるんですか……?」 「何もない。近寄るな。穢れる。他の樹をあたれ」 「何すか穢れるって……。園山さん、早く戻りましょう。ランチ摂ります? 当然僕もご一緒しますから。とゆうか僕への引き継ぎも、まだ全然終わってもないんですからね!」 「お前に引き継ぐことなんか、何もないよ。巾着みたいに常時纏わりついて。これ以上一体、何の吸収する要素があるっていうんだ」 「巾着ってえ。風流過ぎて伝わらないですよ……っ。……ええ? いやまじで、ほんと勘弁して下さい。園山さんいないと、俺、もう本当無理なんで。 ……てゆうか園山さん、高階(たかしな)の見送り、ちゃんと出来ました? もう僕との大事な引き継ぎの最中だっていうのに、出所式の辺りから、めちゃめちゃそわそわしだして、山下さんたちが戻ってきた途端、あの六法全書みたいなファイル、放り投げて閉じちゃったから、どこだか判んなくなっちゃったんですよ!」 『山下さん、高階に、何か聞かれました……!? 高階が知りたい情報は、この俺が……っ。……高階が最も求める、天川(あまがわ)情報(こと)は、最後にこの、俺が……っ!』  向かいの卓にどっかと着いた山下看守部長は、園山に目も合わさず、その熱視線を払うように手の甲を放ってみせた。 『(なあに)も言うとらんわあ。はよ行けえ。 相変わらず、式の時から誠実だが、もう『戻らん』という良ーい目をしとった。振り返らず、とっとと門の娑婆(そと)へ出ちまうぞ。 物言わぬ目で見てくる時もあったが、最後まで節度っちゅうもんを曲げんかった。 余計な情おこして、九州から呪いの念でも送られたら敵わんわ。ただでさえ澱み蠢くこの獄のなかで、せめて定年くらいは浄らかに迎えさせてくれえ』  背後で奥寺の何か喚きが聞こえたような気がしたが、駆けて門前の彼に間に合い、 この空の頂きのようないまし方の爽快な別れを憶え出し、意図せず穏やかな口許を見せていたようだった。

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