86 / 97
やれやれ
払拭しきれない憂いを浮かべた眼が、はたと見開かれた。
認めていた位置から、ほんの少しずれた、まるで傍らに、また『なにか』を見つけたかのような、
食い入るような眼がそこを覗きこんでいる。
「…………」
思わず触れてしまいそうだった指を、押し留めたように口許へ退いて。
そこにあるもの、まるで、そこにこめられてひめられているものを、
こわさぬように、だが見届けずにはいられないという衝動を、彼自身の沈着さで包 んで、
なぞるように、真摯に漏らさず汲みとろうとして、凝視に似た視線を照射させている。
「…………あ、」
腑に落ちた。
という風に、ひそめられていた彼の眉が、強張りを放 った。
束の間、常に引き締めを強いられている表情が、ぽかんとそれを置き去りにして、素の姿を露わに見せる。
「……ははっ」
思わず。覚えず。やられた。
ない混ぜになったそれらに次いで、噴き出てしまった零れ笑いを、園山は掌のなかに抑えた。
抑えて、唇を解放しても、持ち前の口角の上がりを下がりきらせることが依然出来ない。
この塀のうちでは、鉄の仮面を被ってずっとそれを圧し、漏れいでそうなあらゆる情動を総て封印してきた。
だが、もう良いだろう。いまは。
だって、してやられた。
永年、何も知らずに見つめ続けてきたものの、ひめられた、こっそり連ねられていた『存在』に、
いま、ようやく気がついてしまったのだから。
首を振って、湧き出しそうな感情を腕を組んでやり過ごす。
それでも、解き放った表情のまま、ついに腕も解いて天然の天井を仰いだ。
透明と多彩のいり混じった木漏れ陽の差す、桃源の隙間から、本当の宙 へと繋がる、澄みきった彼方が拡がっている。
桃色の天辺と、その空 になにかを認めた彼は、安堵、したわしさ。こころに伏せ続けてきた情を。
ひとが本来持つ感情そのままの微笑と声音を、薄紅の膜のなか晴れやかに滲ませて、呼びかけるように、空へ放ったのだ。
「やれやれ」
「…………園山さあーん……、園山看守長ーお……」
屋内から、聞こえの良い言い方をすれば、長閑な春の午 前にそぐう、間延びした声が近づいてくる。
やさぐれた舌打ちを隠さず、園山は下ろしていた制帽を被った。
「……園山さん、こんなところにいたあ! もう、勝手に休憩、挟まないで下さいよ!
申し訳ないですが、黄昏れてる暇は園山さんにはないんですからね! 何せ今日は、園山さんの勇姿を一日傍で拝める、最後の日なんですから!
……あーあ。看守長って呼んじゃったけど、明日から園山矯正副長かあ。支所だったら支所長クラスでしょ。
いつも僕の隣にいた園山さんが、一気に管理職のスターダムに昇っていく感じ……」
小さく駆けてきた奥寺 看守の、後半はぼやきを零しつつも、まだ紅顔の面影を宿す精気は、若さも相まり、春の陽射しを受け眩しささえ覚える。
奥寺は園山の眼前の桜に目を留めて見上げた。
「やあ、満開だなあ……。ここでの桜、見納めに来たんですか……?
園山さん、この樹、お気にいりですよね。何か想いいれがあるんですか……?」
「何もない。近寄るな。穢れる。他の樹をあたれ」
「何すか穢れるって……。園山さん、早く戻りましょう。ランチ摂ります? 当然僕もご一緒しますから。とゆうか僕への引き継ぎも、まだ全然終わってもないんですからね!」
「お前に引き継ぐことなんか、何もないよ。巾着みたいに常時纏わりついて。これ以上一体、何の吸収する要素があるっていうんだ」
「巾着ってえ。風流過ぎて伝わらないですよ……っ。……ええ? いやまじで、ほんと勘弁して下さい。園山さんいないと、俺、もう本当無理なんで。
……てゆうか園山さん、高階 の見送り、ちゃんと出来ました?
もう僕との大事な引き継ぎの最中だっていうのに、出所式の辺りから、めちゃめちゃそわそわしだして、山下さんたちが戻ってきた途端、あの六法全書みたいなファイル、放り投げて閉じちゃったから、どこだか判んなくなっちゃったんですよ!」
『山下さん、高階に、何か聞かれました……!?
高階が知りたい情報は、この俺が……っ。……高階が最も求める、天川 の情報 は、最後にこの、俺が……っ!』
向かいの卓にどっかと着いた山下看守部長は、園山に目も合わさず、その熱視線を払うように手の甲を放ってみせた。
『何 も言うとらんわあ。はよ行けえ。
相変わらず、式の時から誠実だが、もう『戻らん』という良ーい目をしとった。振り返らず、とっとと門の娑婆 へ出ちまうぞ。
物言わぬ目で見てくる時もあったが、最後まで節度っちゅうもんを曲げんかった。
余計な情おこして、九州から呪いの念でも送られたら敵わんわ。ただでさえ澱み蠢くこの獄のなかで、せめて定年くらいは浄らかに迎えさせてくれえ』
背後で奥寺の何か喚きが聞こえたような気がしたが、駆けて門前の彼に間に合い、
この空の頂きのようないまし方の爽快な別れを憶え出し、意図せず穏やかな口許を見せていたようだった。
ともだちにシェアしよう!

