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振り返るのは、一度だけ

   桜。刑務官ふたり。春の陽気へふんわりと沈みこんだ、凪。  花弁の裾のように紅潮した頬と、猛りのまま潤んだ瞳を煌めかせる若者と、 あたかも無の境地さながら、鋼鉄の百合をその蒼貌に添わせ、沈黙の艦と化した、上官。  そこへ、どこか呆気のとられたような、——憐れみのような、だが素知らぬような春先の風が通り過ぎ、 つぴつぴつぴ。と、シジュウカラの囁きが、静寂のなかへせめてもの長閑さを添え置くように、どこかでそっと、彩りを供えて消えた。 「——ああ。なるほどな。で? 願い出てるのは矢崎だけか? 越智は? 吹石はどうだ。あいつには天気のことでも何でも良い、一日一回声をかけてやれ。精神が安定する」 「園山さん……っ、一世一代の告白に、『なるほどな。で?』なんて返事あります……!? ……あーあー、判ってましたよ! どうせ僕のこころなんか、山羊の紙みたいにどうでもいいものむしゃむしゃ食べて、ぺって吐き棄てるようなもんなんだから! ちゃんと聞いて貰っただけ、有り難いっすよ!」 「当たり前だ。何だよ。『()です』って。 どれだけ時間を浪費したと思ってる。時間と言えば、お前は勤続十年でまだ主任看守か。とっとと山下さんの後を継げよ! 『俺はそろそろ平日の孫の学校公開に行きたいんだがなあ。駄目かあ?』ってぼやき、さっさと解消して勇退させてやれ! 俺の時は副看守長だったよ」 「園山さんとは違うんですよう凡人はあ。あーあ、山下さんとかにはそうやって『やあ、山下さんたちがいるから、安心して福岡に発てます』なんて美しい笑顔ただで見せるのに……。せめて僕にももうちょっと何かご褒美……、 『大雅、よくやってるな。……今晩の宿直時、仮眠室の俺の所へ来い』って、アバンチュールな耳打ち、待ってたんだけどなあ……」 「懲戒になりたいのか。普通に仮眠()ろよ。……まずは10階だ。繰り返すが願いは矢崎だけなのか?」  いつものように、闊歩の前の靴音を鳴らし、先陣を切って脚を踏み出していく。  ふと、背後からの視線が、通常より下の腰付近で撫でられた気がして、悪寒を覚え、園山は後方の部下を顧みた。 「……どこを見ているんだよ」 「……園山さんの、年齢を感じさせない、締まった尻を見ています……」  だって、もう直ぐ見納めなんだから……。  可能な限り眼から吸い尽くさんと言わんばかりに、極まった瞳孔を見開いてまだ己れの臀部に凝視の熱線を送り続ける奥寺に、 心底絶望と嫌悪を覚えた園山は、その健脚で奥寺の腿を強かに蹴った。 「あっ!」「パワハラですよお、でも受けた本人はそうとってないから、()いのかあ」  却って陶然とその痺れに腿を摩る姿に、忌々しさが余計増幅する。 「あーっ! てげなよだきいなっ! どこまでお前はどうしようもないんだよ! 薬物中毒者の囚人よりなおぞっとする!」 「何すか? 宮崎弁ですか? ちょ、もう一回お願いします。園山さん全然方言出さないから……。ああ、私用携帯ロッカーだ、とりあえず社用(これ)で良いや、もう一回お願いします! ()って着信音にするんだ……っ」 「どこまで痴れ者なんだよ! 撤回するぞさっきの『悪くない』云々を! 問題が甚大だ! ……とゆうか早く、お前だよ! するのは! とっとと俺を優先すべき場所へ連れて行け!」 「俺を連れて行けって、まるで役所か式場へみたいな響きで良いっすね! (いって)! ……すみません。あーあ、園山さんのぴんと伸びた背筋、もう暫く見ることが出来ないのかあ……。 ……各フロアの巡回、10階からで宜しいですか? 取り急ぎ矢崎で……、その後昼食でお願いします。残りは休憩後、あ、時間かかるんで上席への挨拶周り等ありましたらそちらを……」  園山の小突きを得ながらも、奥寺の口許が澱みないいつもの職務上のそれへと戻っていく。  もう前を向いて、所内へ、この束の間の(いとま)の庭から、自分たちの戦場へと向かおうとするその背中が、 もう自分はいない前提を背負っていて、だがそこに悲観がないことを、短い返答を戻しながら園山は認めていた。  進むしかない。足掻こうとも。苦しくとも。  指先から零れていく時間の砂の尊さを知っても知らなくとも、その砂を掬いあげてこの(てのひら)に留め置くことは出来ない。誰にも。  沢山のひとの生を、いのちを、熱を、 この掌に受けとって、そして託してきた。  あの朝、これで良かったのかと自分まで魂を抜かれてしまったかのような心地で、あの桜の樹を見上げていた、袖に銀の飾り線を一本しか持たなかった自分は、 今は金のそれを三本携え、かつての自分と同じ銀の線を守る若者の背を見送っている。  進むしかない。そしてどんな人間でも、その彼方(さき)に光があると信じて進んでいるのだと、願いたい。  たとえそのいのちを、(そら)へ還す道を辿ってしまったとしても。  たとえ一度は、その指先で罪の飛沫(しぶき)を掴んでしまったとしても。  ひとは、ひとの行き()くさきは、きっと同じであるのだと、祈りに似たひたむきさで信じている。  背後で変わらず、音も立てずに、だが生命の息遣いを潤沢に繰り返す、荘厳な樹を振り返った。  しばしの別れ、せめてもの顔向けに来た訳だが、随分と見苦しい醜態を目にかけてしまった。  だが、  こんなにも罪深い、誰もが救いを求めて手を伸ばしている、澱みに満ち満ちたこの塀のうちの世界で、 堂々と、また何とも恥ずかしげもなく、きよらかな、まさに桃色の、 ——『公開いちゃつき』を遺していった奴等がいるんだから、 間違いなく、許容だろう。  官と私を併せ持った、自然な素の溌剌で、一切の(おり)が晴れた綻びを見せて、園山は破顔した。  そのまま、前へ向き直り、己れを呼ぶ後進の声に応えてその背を押し、 扉の向こうへ、未来(さき)へと、迷いなく足を踏み入れていった。

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