16 / 351
抜擢 4
「…………そんなこと無いよ」
しばしの沈黙の後。結局、絞り出すように言ったのは否定の言葉だけだった。
「監督。気持ちは嬉しいのですが、少し考えさせて貰ってもいいですか?」
「勿論、無理強いするつもりは無いよ。でも、よく考えてみて欲しい」
「……はい」
いい返事を期待しているよ。と、念を押され、戸惑いながら部屋を出る。
「何がそんなに気になっているんだ? 2年前の事故の事を引き摺るのはわかるが……」
「……違う。引きずってなんかいない」
「ならどうして頑なに拒否する?」
食い下がる兄に対して苛立ちを覚える。これ以上踏み込んでくるなと叫びたい衝動を抑えて睨みつけると、凛はふっと小さく溜息を吐いた。
「まぁいい。気が向いたら話してくれ」
「……」
凛の言うとうり、戻りたいと思った事が少しも無かったかと言えば嘘になる。
だが、事故の後何度か現場付近の海へと足を運んでみたが、どうしてもあの日の光景を思い出してしまい、恐怖で足がすくんで動けなくなってしまった。
危険なシーンを率先して行うのがアクターの仕事の一部でもあるのに、これでは全く使い物にならない。
だから、もう二度とこの仕事に戻る事はないと思っていたのに――。
「あれっ? もしかして、蓮君?」
思わず洩れそうになった溜息を押し殺し、重い足を引きずりながら歩いていると不意に背後から名前を呼ばれ振り返る。
そこに居たのは、蓮がまだ事務所に所属していた頃、一緒に切磋琢磨していた仲間の内の一人だった。
蓮より少しばかり背が高く、健康的な浅黒い肌に柔らかそうな茶色の髪。がっしりとした体格に似合わぬ優しげな顔立ちは一見すると頼りなさそうだが、演技に関しては貪欲で妥協を許さない男――。
「……誰かと思ったら、雪之丞じゃないか!」
歳は自分より7つほど若いが、自分と同じく戦隊モノのヒーローに憧れてアクター業界入りした彼と一緒に仕事をする事が多かった為、プライベートでも何度かつるんで遊ぶ程度には仲のいい同僚だった。
棗 雪之丞 と言う芸名のような名だが、本名だと言っていたのを思い出す。
ともだちにシェアしよう!