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第6話
「ちょ、降ろしてください!」
「大人しくしていろ。」
そう言われても僕の頭はパニックだ。なぜ、どうして、こんな事になってしまっているのか。
羞恥と恐怖でもがく僕を、オリヴァーは離すつもりはないらしい。僕を肩に担ぐその右腕が、ぎゅっと僕の腰に絡みつく。
何とか逃げようと身を捩ってはみたものの、視界の隅にオリヴァーの手とそこに握られていた弓が目に入った瞬間、僕は無意識の内に抵抗をやめ、身を固くしてしまっていた。
そうだ、彼の手にはヴァイオリンが。
「オリヴァー!何してんだお前!」
担がれてオリヴァーの背に顔を埋めていた僕には見えなかったけれど、どうやら色 さんが助けに入ってきてくれたらしい。
耳元でふん、と不機嫌な声が聞こえた。
「他に適当な重りがなかったんだ。俺の手が痺れたら離してやるさ。」
「はぁ?」
色さんの訝しげな声が聞こえる。
重り?今からレコーディングなのに、手を痺れさせるってなぜそんな事を。
わけがわからず混乱は深まるばかりだ。色さんも助けに入ってきてくれたものの、どうしていいのか対応に困っているらしい。
肩からずり落ちそうになる僕を、オリヴァーが担ぎ直した。
「……あらすじと曲を使うシーンの台本を読んだ。事故の傷がまだ完全に治っていない中で弾くんだろ?」
「あ。」
僕が訳して送った台本とあらすじ。
ようやくわかった、この人が何をしようとしているのか。
物語のクライマックス、手術を終え退院出来たものの以前のように氷上で跳べなくなってしまっていたヒロインを鼓舞するべく、主人公の男性が彼女をスケートリンクに連れていき、そこでヴァイオリンを弾くシーン。
完治していない肩の怪我をおして、それでも惹かれている女性の為に弓を握る。その音に背中を押され、ヒロインは氷上を舞い跳ぶ。そんな重要なシーンと音楽なんだ。
「映像を生かす音がいる。……シキ、お前が求めてるのは完璧な音楽じゃないだろ?」
「……、」
返事は聞こえてこなかった。
ただ、僕にはふ、と色さんが小さく笑った気がした。
「オリー、あんま彗 さん困らせんなよ?」
咎める、にしては少し楽しそうな声が聞こえて、パタンとスタジオのドアが閉じられる。どうやら色さんは隣に戻ったみたいだ。
僕は今、とんでもない瞬間に立ち会ったんじゃないだろうか。
二人の音楽家が、互いの音を認めあった。これから世界に名を馳せていく二人だ。これはもしかすると、音楽史に残る出来事なのでは……と、こんな格好でなければもっと感動していたかもしれない。
「あの、オリヴァー、」
「もう少しじっとしていろ。……それにしてもシーは軽いな。ちゃんと食べてるか?」
先程しこたまに食べさせられたばかりですけど。なんて言うために口を開こうものなら文句以外の物が出てきて本気で大惨事になりそうだったので、僕はずり落ちていた眼鏡をかけ直して大人しく重り役に徹することにした。
静まり返ったスタジオで、世界に名を知られるヴァイオリニストに抱えられ、二人きり。これって、よく考えなくても凄い状況だ。
シトラス系の香水の香り。じんわりと伝わる体温、息遣い。五感全てに彼の情報が入ってきて、そわそわと落ち着かない。
僕の心臓が早鐘を打ち始めたのは……多分担がれ天地が逆転しているせいで頭に血が上りそうだからだろう。
「よし、もういいぞ。」
ようやくお許しが出て、僕の身体は彼の手によりゆっくりと床に降ろされた。
自らの肩を回し、手首をヒラヒラと振り。感覚を確認しているようだけど、どうやら満足のいく状態らしい。弓を握るその手が、僅かに震えているように見えた。
オリヴァーの口角がうっすらと上がる。
そのまま手にしていたヴァイオリンを構え弓を弾けば、先程調弦を終えた時のままの綺麗な和音が響いた。
オーシャンブルーの瞳が真っ直ぐに僕を見つめ、嬉しそうに細められる。
「悪かったな、シー。後は向こうで存分に俺の音を聴いてろ。」
もしかしたら謝罪のつもりなんだろうか。相変わらずの尊大な言葉に思わず苦笑しつつも、僕はその場でぺこりと一礼してから退出する。
ようやく終わったとほっと一息吐き出せば、二人分の笑い声に迎えられた。
「おつかれ、彗さん。」
労いの言葉をかけつつもくすくすと笑う色さんに僕は思わずむすっと口をとがらせる。ちなみに、声を殺しつつもお腹を抱えて笑っている黒澤さんは完全に無視をした。
『おい、こっちはいつでもいいぞ。』
スピーカーから聞こえてきた声に、色さんも黒澤さんもはいはいと、なんとか笑いをこらえて椅子にきちんと座り直す。
ここから先僕に出来ることは何も無いけれど、僕も二人の背後に立ちガラス越しにマイクの前に立つオリヴァーを見つめる。
ほんの一瞬、オーシャンブルーと目が合った気がした。
「さ、それじゃ始めましょうか。」
黒澤さんの声は、マイク越しにオリヴァーへも伝えられる。その瞬間、ガラス越しでも場の空気がピンと張り詰めたのがわかった。
黒澤さんがミキサーを操作し、右手をす、とオリヴァーに向け前に伸ばす。その手の平がくるりと裏返り合図を出せば、力強いヴァイオリンの音が僕の鼓膜を揺らした。
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