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第7話

その音を聞いた瞬間、ひゅ、と喉が鳴り呼吸が止まった。 ビリリと空気を震わせたヴァイオリンの音が、鼓膜を通り全身を震わせる。 音を聴けと、目をそらすことは許さないと、身体はそう無意識のうちに判断して聴覚以外の全ての動きを止めたみたいだった。 「……やっぱバケモンだな、あいつ。」 近くで、(しき)さんの声が聞こえた。 でも僕はそれに応えることも、彼に視線を移すことすら出来なかった。 圧倒的だ。 今この空間は、オリヴァーの響かせるヴァイオリンの音が支配している。 午前中に色さんのピアノと合わせた時とは違う。あの時もゾクリとするくらいの音色だったはずなのに、これはさらに次元が違う。痺れる腕で不完全だからこそ奏でられる、感情をのせた叫びにも似た音色が狭いスタジオを震わせる。 クライマックスに流れる劇中曲。ヒロインを奮い立たせる為に弾く、主人公の渾身の音。 ヒロインの背中を押すどころか蹴りつけるくらい荒々しく、激しく、胸を打つ。耳を塞ぐなんてできるはずも無い、聴かずにはいられない音。 痺れる腕で掴む弓は鬼気迫るフォルティッシモを生み出し、誰の心をも揺さぶる。 そうか。だから、グァルネリなんだ。 繊細な音を出すとされ、ヴァイオリンの最高峰と名高いストラディバリウスを愛用するヴァイオリ二ストが多い中で、何故オリヴァーはグァルネリを選んだのか。その意味がようやくわかった。 ストラディバリではこの音を支えられないんだ。 地の底から湧き出るような力強さ。計算された荒々しさ。この華やかさも鋭さも、グァルネリにしか出せない。 これが、グァルネリ・デル・ジェス。 これが、オリヴァー・グリーンフィールド。 重音の波がまるで衝撃波みたいに僕の身体に突き刺さる。 「っ、」 心臓の奥底からせり上ってきたものに、思わず口元を押えた。 これは、この音は、忘れていたはずのものを僕の中から引きずり出してしまう。 ガラス越しに見えるオリヴァーの姿がじんわりと滲んでいく。 ああ、なんて残酷な音なんだろう。 苦しい。この音は、僕には苦しすぎる。 色さん達に気づかれないように、僕はぎゅっとスーツの上から胸を押さえた。 早く終わってくれと願う一方で、ずっと聴いていたいと心は叫ぶ。相反する気持ちに耐えきれなくなって、僕はついにはブースを抜け出していた。 邪魔にならないよう後ろ手でそっとドアを閉じて、ズルリとその場に崩れ落ちる。 それでも分厚いドアの向こうから、ヴァイオリンの音色が漏れ聞こえていた。 誰もが心惹かれる、音。 僕には出せなかった音。 捨てたはずのものが、心臓の片隅にこびりついていた事に気付かされてしまった。 僕は、どう足掻いてもこのドアの向こうにいる人達と同じ場所には立てないのに。わかっているのに、諦めたのに。 その事実を苦しいと思うことすらおかしい事なのに。 この音は、忘れていた感情を呼び起こす。 「…………っ、」 膝を抱えて、顔を伏せる。じわじわと込み上げてくる熱を押し込めるように唇を強く噛み締めた。 やがて、長く伸びやかな高音を響かせたのを最後に、ドアの向こうから音が止んだ。 行かなくちゃ。 胸に手を当てふぅ、とゆっくり息をはく。パシンっと自らの両頬を叩いて、僕は何とか立ち上がった。 今回はこれで終わりだ。これから先、色さんが音楽を続ける限りまたこの音を間近で聴くこともあるのだろうけれど、しばらくはオリヴァーとも会うことはないんだろう。 数時間前のように彼に振り回されることもないのかと思ったら、ほんのわずかに寂しさを感じてしまった自分がいて思わずくすりとしてしまった。 うん、大丈夫。マネージャーとして、ちゃんと仕事をしなくちゃ。 音を撮り終えたら、後はそれを確認するだけだ。今日はイレギュラーもあって色さんもオリヴァーも予定より長い時間拘束されてしまっていたけど、これでようやくおしまいだ。 もう一度息を吐いて呼吸を整えてから、皆さんの邪魔にならないようにとそっとドアを開いた。 本当に色々あったけど、初めは険悪だった二人もお互いの音を認め合えた事だし、最後はにこやかに終われそ―― 「…………え?」 ドアを開けた瞬間僕の目に飛び込んできたのは、ぎ、と鋭い眼光で睨み合う色さんとオリヴァー。 えっと、これはいったい…… 室内に明らかに不穏な空気が漂っていた。

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