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第9話

「二週間後の日本公演の後レコーディングの時間を作る。それで足りないなら次の中国公演は延期だ。」 マネージャーさんとの電話を終えオリヴァーがそう告げる頃には、(しき)さんの気持ちも決まったみたいだった。 「わかってんのか?日本国内だけで上映される、ただの陳腐な恋愛映画だぞ。」 「だが、音楽監督はお前だ。最高の曲に最高の音をつけてやる。」 「……弾きたいって素直に言えっての。」 オリヴァーには分からないよう日本語でぼやいてから、色さんは目の前のデスクに放っていた自らの鞄からいくつかの楽譜を取りだし目を通し始めた。 「ヴァイオリンがメインじゃない曲は諦めろ。……今日の二曲を除いて、あと五曲だ。」 「オーケイ。やってやるさ。」 色さんは手にした楽譜のうち数枚をデスクに叩きつけ、オリヴァーへと突き出す。 「三曲はこのままで。あとの二曲は……一日だけ時間くれ。オリー用に書き直す。お前はどうせもっとガチャガチャした超絶技巧弾きたいんだろ?」 はぁ、と深いため息混じりに呟く色さんとは対照的に、オリヴァーは満足げに口角を上げ差し出された譜面を受け取った。 はぁ。色さんが二度目のため息とともに自らの髪を掻き乱す。 「ったく、既に今日の曲以外は監督に渡してるんだぞ。なんて説明するつもりだよ。」 「それにつきましては既に確認を取りました。」 申し訳ないと思いつつ割って入った僕の一言に、色さんの動きがピタリと止まった。疲労の色が濃かった瞳が見開かれ、隣にいるオーシャンブルーの瞳と共に僕を注視する。 「演奏者の変更については問題ないそうです。むしろ願ってもないことだと。編集にとりかかるまで一ヶ月は余裕があるそうなので、差し替えは可能だそうです。」 僕は先程電話で監督とやり取りした内容を伝え、さらには今回の仕事をするにあたってオリヴァーのマネージャーさんと共有していた彼のスケジュールをスマートフォンから呼び出して、色さんとオリヴァーに見えるようデスクに置いた。 「オリヴァーのコンサート最終日の翌日は平日になるので色さんには学校をお休みいただかないといけないのですが、その点に関しても先程担任の木崎先生に確認して了承を得ています。」 「あ、ああ。ありがとう。」 「このスタジオも既にその日程で押さえました。黒澤さんもスケジュール問題ないですか?」 「え、あ、はい。俺はいいですよ。」 「オリヴァーはその翌日まで日本に滞在の予定だったようですから念の為二日間スタジオを押さえています。オリヴァー、もし日本に滞在中に練習スタジオが必要なら押さえますのでお申し付けください。」 「お、オーケイ。」 スケジュールを確認する僕に三人分の視線が注がれる。何故だか皆、その口元があんぐりと開かれているのが気になって、僕は話を止めて僕に向けられる視線一つ一つをじ、と見返した。 「あの、……何か問題ありましたか?」 不安になって聞いてはみたものの、三人とも問題ないと首を横に振る。 シーはマネージャーなんだなというオリヴァーの当たり前すぎる言葉の意味はよく分からなかったけれど、どうやら大丈夫みたいだ。 「と、とにかく、こうなった以上はオリーの我儘に付き合ってやるよ。ただし、二週間後のレコーディングで下手な音響かせるようなら差し替えは無しだからな。」 とん、と色さんの人差し指がオリヴァーの胸に触れる。 その手を払ってから、オリヴァーはふん、と鼻を鳴らしニヤリと口角を上げた。 「俺を誰だと思っている。コンサートもこの仕事も、最高の音を聴かせてやる。」 互いに互いをぎ、とひと睨み。それからほとんど同じタイミングで二人はうっすらとその口元に笑みを灯した。 そこには多分、二人にしか分からない会話が交わされたんだろう。 「……なんか、感慨深いものがありますね。」 「はい。……はい。」 黒澤さんの言葉に、僕は力一杯頷いていた。 どうしよう、僕は今間違いなくとんでもない瞬間を目撃している。 わずか五年だ。十二歳だった少年がひっそりとたった一人で奏で始めた音が、世界に名を知られるヴァイオリ二ストに認められた。話題性や宣伝の為じゃない、共に作品を作りたいと才能溢れる若い二人が手を取りあったんだ。 譜面を確認し始めた二人を前に、本当なら跳び上がって喜んで黒澤さんとハイタッチしたかったところだけれど、僕も黒澤さんもチラリと視線を合わせて困り顔で笑うことしか出来なかった。 たぶん、今回の事は色さんにとってはいい事ばかりではないはずだから。 「……色さん、今年十八歳になるんでしたっけ。」 「はい。」 黒澤さんの言葉が、僕の中でずん、と響いた。 小学生だった少年が、高校三年生の青年になった。 色さんにとって、そしておそらく僕にとっても、この一年は選択の年になるんだろう。 sikiは世界へ名前を知られるべき人だ。そう思ってきたけど、オリヴァー・グリーンフィールドという人はそのきっかけになるかもしれない。 「シキ、やはりお前は面白い曲を作るな。」 「そりゃどうも。って、ちょ、こら。」 オリヴァーが色さんの肩を抱き、からかうように髪をかき乱す。 二人とも名の知れた音楽家なのだけれど、こうして見ているとまるで兄弟がじゃれてるみたいになんともほのぼのした光景だ。 これから先この二人がタッグを組んで音楽界を牽引していく未来があるのかもしれない。そう考えると、僕は…… 「どうだ、これから先、ヴァイオリン曲は全部俺が弾いてやってもいいぞ。」 「ざけんな、誰がお前なんかに頼むか。」 「あぁん?」 「あぁ?」 ほのぼのした空気をあっという間にぶち壊し、早速またしても険悪な空気を撒き散らし始めた二人を前に、僕はキリキリと痛み始めた胃をさすった。 うん、この人達が手を取り合って曲作りって色んな意味で凄い事になりそう。 しばらくは胃の痛い日々が続くのは間違いないようで、僕は盛大にため息をつかずにはいられなかった。

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