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第10話

「本当によかったんですか?」 予定していたレコーディングを全て終え、(しき)さんをご自宅まで送り届ける道すがら。 信号待ちで僕はなんとなくそう聞いてしまっていた。 「ん?……ああ。」 助手席に座りぼんやりと茜色の空を眺めていた色さんが、僕の方を振り返る。 その口元にはうっすらと笑みが浮かんだ。 「音楽を任されたんだ、俺は俺に出来る最高の音を作るのが仕事だから。」 そう言って色さんは膝に置いていたヴァイオリンケースを抱え直した。 念の為と持参して、結局今日は一度も音を奏でることのなかった色さんのヴァイオリン。 ご本人はヴァイオリンよりピアノの方が弾けるからと基本的にはピアノをメインに曲を作ることが多いのだけれど、ヴァイオリン曲でCDも出しているプロのヴァイオリニストでもある。 そんな色さんが演奏を譲らなければならなかった。その心情を考えると、今回の事はやはり僕は手放しで喜べなかった。 「オリーの言う通り、今回はこれが最善だろ。……悔しいけどな。」 自嘲する彼になんと言葉を返せばいいのかわからず、僕はぎゅっとハンドルを握り無言で車を走らせる。 色さんは昔から大人びた人だった。我儘や愚痴一つ言わず、いつも口を引き結び、大人の中に入って自分の表現を貫いてきた努力家だ。子供であろうとも、この人はいつだってプロの音楽家として僕の目の前にありつづけた。 ピアニスト、ヴァイオリニスト、そして作曲家。これら全てをこなして世に認められた凄い人なんだ。 僕の知る限り、sikiは世界最高の音楽家です。と、僕の口から伝えたところで、色さんの心の内にまでは届かないんだろう。マネージャーであり、大人である僕に対しては色さんはいつだって一歩引いて遠慮してくれているから。 彼が本当に心許して寄りかかれる人はきっと、 「……今日、ご実家ではなくて寮にお送りしましょうか。美鳥(みどり)さんにお会いできないの、辛くないですか?」 「ぶっ、ごほっ、」 突然僕の口から出たルームメイトさんの名前に、色さんは露骨に反応しむせ返った。 手放しそうになったヴァイオリンケースを慌てて抱え直し、わずかに頬を赤く染めた色さんが睨んでくる。 「ちょ、いきなりなんだよ、」 「いえ、昨日今日とお仕事でこちらにいらしてますから、寂しくないのかなぁと。」 「寂しいって、子供じゃないんだから…」 そう言いながら視線を逸らす色さんの顔はまだ赤いままだ。それは、十七歳という年相応の何とも可愛らしい反応だった。 去年、隣県の全寮制の高校に転校すると聞いた時はどういう心境の変化かと驚いたけれど、そこでの出会いは色さんに良い変化をもたらしてくれたらしい。こうして時折素の顔を見せてくれるようになった事は本当に嬉しく思う。 まぁ、それでももっと頼ってくれてもいいのにと思ってしまうのだけれど。 「まだたった二日だろ。俺にもあいつにもやらなきゃいけない事があるから。……それに、まあ、明日は仕事でこっちで会うわけだし。」 そう言って再び窓の外へと顔を向けた色さんの耳はやっぱり夕焼け空に真っ赤に染まっていて。 「それでは、ご実家までお送りしますね。」 ふふ、と思わず緩みそうになる口元を隠すために、僕はそっとアクセルを踏み込んだ。 都内のスタジオから都内の(しき)さんのご実家まで。スタジオへ向かう時間の短縮と、寮ではピアノやヴァイオリンを自由に弾けず曲作りに支障が出るからと、今回の仕事が佳境に入ってからは週末になるとこうして色さんご御実家へ送り迎えする事が増えた。 (すい)さんもその方が楽だろう?と僕に対して気をつかってくれているところもあるらしく、嬉しいと思う反面申し訳なさも感じてしまう。そんな事を考えているうちに車は見慣れた住宅街に入り、色さんのご実家に辿 り着いた。 車を止め、シートベルトを外す彼の横顔を盗み見ればその表情からは先程までの照れ臭さは消えていて、もう曲の事を考えているようだった。 今日中にオリヴァー用に曲を書き直す。無謀とも思える事を、この人は本気でやるつもりなんだ。 「資料等いる物がありましたら遠慮なくご連絡下さいね。」 「ん、ありがとう。また明日もよろしくお願いします。」 いつものように僕に礼儀正しく一礼してくれて、車を降りた色さんはそのまま大きな門の向こうへ消えていった。 マネージャーなんてもっとぞんざいに扱ってくれてもいいのに。本当に、大人以上にきちんとした大人であろうとする人だ。 「……もっと我儘を言ってくれてもいいのに。」 ふぅ、と小さくため息を吐いてから、僕は車を発信させようとサイドブレーキに手をかけた。 会社には今日は直帰すると報告してあるので、僕の本日の業務は終了だ。予定より時間が押したとはいえ日暮れ前に終わることが出来たので、今日はちゃんと自炊して案外のんびり出来るかもしれないな。 なんて考えながらサイドブレーキを下ろそうとしたのだけれど、 ヴーッ ヴーッ スーツのポケットに入れていた会社用のスマホが振動して着信を知らせる。 会社からだろうかと画面を確認してみれば、知らない番号からだった。 とりあえず、覚えのないところからだろうがなんだろうが、サラリーマンとして出ないという選択肢はない。 「はい、小比類巻です。」 『あ?Kohi…何だって?』 聞こえてきたのはちょっと不機嫌そうな覚えのありすぎる声。 ……うん、嫌な予感しかしない。 「えっと……シーです。」 げんなりしながらもあえてそう名乗れば、電話の向こうの声がほんの少しだけ楽しそうに弾んだ。 『よお、シー。仕事は終わったか?』 貴方がこのまま黙って電話を切ってくれるなら終わりです。なんて言えるはずもなく、僕はYESと一言力無く答えることしか出来なかった。 『仕事が終わったなら暇してるだろう?今日の礼に夕食付き合ってやるからホテルまで迎えに来い。』 「はぁ!?え、ちょ、」 僕の抗議の声なんて聞きもせず、一方的にホテルの名前とご丁寧に号室まで告げてから通話は一方的に切られてしまった。 「……うそ、」 嘘でも夢でもないことは、呟いた自分が一番よくわかっていた。 ああ、もう、今日は厄日だ。 レコード会社に務める所詮しがないサラリーマンの僕に、拒否権なんてあるわけない。 僕は来た道をあわてて引き返すしかなかった。 ぎゅっと力強くハンドルを握りしめ、僕は数分前に抱いていた思いを蹴散らすようにアクセルを踏む。 うん、音楽家の我儘なんて、ろくなもんじゃない。

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