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第14話

何がどうしてこうなったのか。何も、何もわからない。 思考はぐるぐると渦を巻き、答えのない迷路にはまりこんでいく。それでも身体は目の前の楽器を前に、条件反射のように手を伸ばしていた。 震える手でピアノの蓋を開けば、目の前に広がる白と黒の世界。それは、もう見ることは無いと思っていた懐かしすぎる光景だった。 「シー、(アー)。」 言われるままに僕は震える指でラの鍵盤を押す。 ポーンと響いた音に、心臓の奥がざわざわと揺らめいた。 オリヴァーは聴こえた音を基準にあっという間に調弦を終わらせる。 どうして。 目の前にいるのはオリヴァー・グリーンフィールド。その隣でピアノに向かうのは、僕。そんな事、ありえるはずないのに。もう、自らの手で音楽を奏でる事はしないと、そう決めたはずなのに。 オリヴァーがヴァイオリンを構え音を確認するために弓を引けば、綺麗な和音が鳴り響いた。 雑談しながら食事をしていたはずのお客達は手を止め、店内はしん、と静まり返る。何が始まるのかと、誰もがこちらを見ていた。 「……本当に、弾くんですか?」 現状に思考が追いつかないまま震える声でたずねれば、オリヴァーはヴァイオリンを構えたままニヤリと口角を上げる。 「当たり前だろう。曲はそうだな……チャールダーシュで。」 気がつけば、もう後戻り出来ないところに立たされていた。サングラスの奥から覗くオーシャンブルーは真っ直ぐに僕を見つめている。 弾け、と。 一曲だけ。そう、一曲だけだ。 ヴァイオリンじゃない。ましてやただの伴奏だ。仕事相手が望むから、だから、一曲弾くだけだ。 瞳を閉じて、ふぅ、と息を吐く。 脳裏に薄暗くかかる闇を振り払うようにかぶりを振って、僕は鍵盤に指を下ろした。 息を飲み、指を押さえれば響く和音。強く落とされた音に、ニ短調の哀愁を帯びたヴァイオリンの音が高らかに乗ってくる。 ヴィットーリオ・モンティ作曲、チャルダッシュ。 兵士が酒場で兵を募集するために踊ったことが起源とされ、確立されたジャンルなのだけれど、チャルダッシュと言えばモンティのこの曲を指すと言っても過言では無いくらいの代表曲だ。 オリヴァーの長い指が、ゆったりと艶のあるビブラートを響かせる。聴衆を惹き付ける哀愁漂う前半のラッサン(遅い)パート。彼のヴァイオリンが歌えるように、僕はその横顔を見ながら必死に和音を押えていく。 色気すら感じる澄んだ音。小さな洋食屋の片隅で、誰もがその音に耳を傾けていた。小さな空間をオリヴァーの音が満たして、聴衆を飲み込み巻き込んでいく。その中で、僕は奇妙な感覚に囚われていた。 昔、まだ僕が音大生だった頃、ピアノ科の生徒が捕まらない時にはこうして何度も友人や教授の隣で伴奏をしていた。もちろんその逆もあったけれど、ヴァイオリンを諦めると決めたあの日以降は、僕は誰かの音楽の役に立てるならとこうしてピアノを弾くことが多くなっていた。 懐かしい感覚。でも、違う。今僕の隣で響く音は、今まで聴いたどの音よりも激しく深く僕の心を揺さぶってくる。まるで、僕の中にある何かを呼び覚ますかのように。 ゾクリと背筋を伝ったのはこの音に対する感激なのか畏怖なのか。わからないままに僕自身もオリヴァーの作り出す音の波に引き込まれていく。 高らかに歌い上げるヴァイオリン。弓を引くその横顔が、ちらりと僕の方を見た。サングラスの隙間から覗く、海のような深い青。 ――くる。 ロングトーンの後のわずかな空白、僕は息を止め全ての意識をオリヴァーに集中させた。 限界まで弓を引いた腕が、動く。 ヴァイオリンの音が跳ねたその瞬間、僕の指は鍵盤の上を全速力で駆け抜ける。 哀愁を帯びた短調のラッサン(遅い)から、一転して軽快なフリスカ(速い)パートへ。突如として空気を変えた音に、周りはざわめき息を飲んだのがわかった。 全力で駆けていく16分音符が、先程までの憂いを帯びた音に染まった空気を一変させる。 「っ、」 追いつけない。とにかく必死に食らいつこうと指を動かすけれど、慣れない上にブランクのある僕のピアノでは伴奏どころかお荷物になってしまう。僕は咄嗟に音符を省略してなんとか弾き続けた。 「兄ちゃんいいぞー!」 背後から歓声が上がり、手拍子が聞こえ始めた。楽しそうに弧を描くオリヴァーの口元が視界の隅に映る。 やっぱりこの人は凄い。完璧な運弓(ボウイング)、ブレることなく真っ直ぐに響く音。この速度で、正確に音を響かせ余裕すら感じるなんて。 「シー、ついてこいよ?」 「なっ、」 再びゆったりと艶のある音を響かせたと思ったのもつかの間、また軽快に飛び跳ね駆ける音。アップダウンの激しいリズムに、聴衆はいつの間にか飲み込まれていた。 皆この曲のように軽快に心弾ませているのがわかる。でもきっと、一番この音を楽しんでいるのはオリヴァー本人だ。次第に大きくなる手拍子を受けて、彼の音はさらに速度を増していった。 どこまでも自由な音。ヴァイオリンが、演奏が好きなんだと、言葉以上にうったえかけてくる。 ダイナミックなスピッカートに駆け抜ける爽快感と高揚感。僕もいつの間にか気持ちが弾んでいた。よく考えなくてもオリヴァー・グリーンフィールドの伴奏を勤められるなんて、こんな楽しい事はないじゃないか。 歓声と手拍子が聞こえる。 オリヴァーが作る音の波の上を、僕は思うままに駆け回った。リズムが合っていたかなんてわからない。ミスタッチだって一体いくつあったやら。 それでも、押し寄せる波が僕の背中をグイグイ押してくる。走れ、走れ、ただひたすらに。聞こえてくる声のままに、鍵盤に指を走らせる。 大きな波が、僕を飲み込んでいく心地よさに気がつけば完全に身を任せていた。 終わりに向けて、オリヴァーのヴァイオリンが聴衆の興奮と共に最後の階段を駆け上がる。 一際高い音が鳴り響けば、一瞬訪れる空白。時を止めたようにしん、と静まり返った空間で、オリヴァーがチラリと僕を見た。 僕は小さく頷いて、ヴァイオリンと共に最後の和音をかき鳴らす。 小さな店内の隅々まで響き渡る最後の一音。彼の弓がヴァイオリンから離れたと同時に僕も鍵盤から手を離し、僕達は同時にピタリと音を止めた。 あ、終わったんだ。 水を打ったように静まり返った店内で、僕はようやくその事実に気がついた。 終わった…。そうだ、僕……弾いたんだ。 波紋が広がるように今更ながらにじんわりと押し寄せてくる事実。 けれどその事実を噛み締めるより早く、店内は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。

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