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第17話

オリヴァーの手が自らの頬に伸び、僕が思いっきりひっぱたいた部分に触れる。 まるく見開かれたオーシャンブルー。ぽかんと口を開き数度瞬くその瞳を、僕はぎ、と睨みつけた。 「あ、あなたは、オリヴァー・グリーンフィールドなんですよ!?あなたみたいな影響力のある人が、こんな自分を貶めるような事してどうするんですか!こんな事っ、していいわけないでしょ!」 「シー……、」 「貴方の恋愛対象は同性かもしれませんけど、僕は違う!貴方は遊びでこういう事をするかもしれませんが、僕は嫌なんです!!」 喉の奥からせり上がってくる感情が上手く言葉にならない。怒りなのか悲しみなのか恐怖なのか、それすら分からないまま肩を震わせていると、不意に視界が歪んだ。あ、と思った時にはもう遅くて、ぼろりと零れた涙が顎先まで伝う。 「その、なんだ、……その…」 言葉を探しあぐね、どこか惚けたその表情は、いまだ自分に起きたことが信じられないようだった。 それはそうだろう。オリヴァー・グリーンフィールドの頬を打つなんて事をできる人間、そうそういるはずないんだから。 クラシックを少しでも知っている人間なら、この人がこの界隈にどれだけの影響力をもっているのか知らないわけがない。地位も名声も、音楽家として欲しいものを全て持っている人だ。彼が関係を望めば、繋がり欲しさに喜んで手を取る人はいたんだろう。 だけど、僕は違う。違うんだ。 こぼれ落ちた涙を拭って、気持ちと共に俯きそうだった顔を上げる。 「オリヴァー……貴方、勘違いしてます。」 言葉をなくしたオリヴァーを助手席に押し戻す。その手が震えていた事は多分気づかれているんだろう。 無言のまま大人しくストンと座席に腰を下ろしたものの、オリヴァーの顔は明らかに説明を求めていた。 僕はいまだ震えの止まらない身体を落ち着けるために、ぎゅっと自身を抱きしめる。 「ぼ…私は、楽器なんて弾かない。」 「…は?」 「ヴァイオリンは、弾かないんですっ!」 声は、情けないくらい震えてしまった。 目の前のオーシャンブルーが訝しげに細められる。 「なぜ嘘をつく?だってシーは…」 「っ、触らないで!」 僕の顔に伸ばされた手を、僕は払い落とした。 先程まで触れられていたはずなのに、今はその手が怖い。 明らかな拒絶にオリヴァーの顔が悲痛に歪む。伸ばされた手は宙を掴み力無く下ろされた。 もう触れられたくない。この人に。この人が気づいたのであろう事実に。 僕は自らの指で自分の輪郭をなぞった。先程オリヴァーが何度も撫ぜていた僕の左顎の下、わずかに皮膚を固くし、痣になっている……ヴァイオリンの肩当てが触れるその場所を。 見た目にはわからないくらい小さなものだったはず。だけど、オリヴァーは確信を持った上で触れてきていた。 気づいて、僕をまたあの場所に引きずり出そうとした。立場を利用しようとした。 僕にとって、最悪な方法で。 「私はヴァイオリニストじゃない。私自身の音楽は、もう諦めたんです。……お願いだから…もう触れないで。」 自らが発した言葉に、またじんわりと視界が滲む。 肌にも、心臓の奥にしまい込んだ傷にも、もうこの人に触れてほしくない。 キッパリと拒絶すれば、オリヴァーは 何か言いたげに口を開いたが、そのままぐっと引き結び押し黙った。 互いに言葉なく見つめ合う。 狭い車内。耐えきれず先に視線をそらせたのは僕の方だった。 「ホテルまでお送りします。……帰ったらお顔、冷やしてくださいね。」 「……わかった。」 小さく頷き、視線は窓の外へ。 狭い車内のはずなのに妙に遠く感じたその横顔は、酷く遠くに感じられた。

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