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閑話 コビヲウル
シャワーを浴びて、ルームサービスのワインを楽しむゆったりとした時間。
安全でホテルのサービスも質が高いと称される日本の地で、ほんの束の間の休息の時間……だったはずなのだけれど。
突然ガンっとノックなのか蹴り飛ばしたのか、乱暴な音がドアの向こうでかき鳴らされ、リラックス出来る時間は終わりを告げた。
「……brat.(クソガキ)」
またかと頭を抱えてため息ひとつ。
あの男はどうしてこうも人のプライベートに無遠慮に踏み込もうとしてくるのか。来期の契約書はそこのところをもっとしっかりと取り決めておかなくては。
おい、アマンダ!とついにはドアの向こうで喚きはじめた雇い主に頭痛を覚えつつ重い腰を上げる。
イライラをぶつけるようにドアを乱暴に開けてやった。
「ちょっとオリヴァー!緊急事態以外は業務時間外に接触してこないでって……」
ドアを開け間髪入れずに投げつけてやった怒声は、気まずそうに視線をそらせながらその場に棒立ちする男を前に、最後まで紡ぐことは出来なかった。
貴公子だかなんだか知らないけれど、不機嫌にゆがめられていることの多い端正な顔。その左頬がうっすらと赤く腫れ上がっている。
それが何を意味するのか、聞かずともわかるくらいには自分はこの男と長い時間を共にしている。
「……これはまた。随分といい男になったじゃない。」
あえて揶揄してやれば、いつもなら不機嫌に引き結ばれるその口元は力無くうるさいと息を吐き、端正な顔は情けなく眉尻を下げ、歪む。
これは紛うことなき緊急事態だった。
部屋に通してやれば、オリヴァーは奥へと進み先程まで自分が座っていた窓際の一人がけのソファに腰を下ろした。気まずいのかその視線は窓の外の夜景へと向けられている。
「弁護士が必要な案件なの?」
「……必要ない。……自分を貶めるような事はするなと説教されて…ここまで送ってもらったからな。」
「まぁ紳士だこと。」
ワインクーラーの氷をポリ袋に入れ、ハンカチに包んで渡してやれば、オリヴァーは素直に受け取り自らの頬に当てた。
明日の撮影の事が一瞬脳裏をよぎったけれど、おそらくそこまで酷い腫れではないはず。残ったとしてもメイクで隠れる程度だろう。アイシング出来るものを渡してやった時点で、マネージャーとしての自分の仕事は終わりだ。
けれど、いつもはふんぞり返っているその肩を落とし項垂れる後ろ姿に、気がつけば部屋に帰れの一言は言わず、空のワイングラスを片手に小さなテーブルをはさんで向かいのソファに腰を下ろしていた。
自国の法律上ワインを注いでやるのは躊躇われたので、グラスにミネラルウォーターを注ぎ差し出してやる。
心配になった、というわけではない。純粋に興味が湧いたのだ。いつだって尊大なこの男をここまで気落ちさせたその存在と理由に。
「随分と趣味が変わったじゃない。まさか本気で彼に手を出すとは思わなかったわ。」
ピクリとオリヴァーの肩が震え、視線が気まずそうに左右に泳ぐ。
「……俺だって、そんなつもりなかったさ。」
オリヴァーの言葉通り、数時間前に二人を見送った時には本気であのマネージャーとどうこうなろうという意思はこの男から感じなかった。
わがままを言える相手を見つけてじゃれついていたような印象だったのだけれど。
そもそもコヒルイマキという人は、何に対しても芸術的な美を求めるこの男の趣向からは大きく外れているように見えた。
「……ずっと楽しそうに笑ってたんだぞ。俺と重奏して…あんな顔したくせに……」
「ジャパニーズの言葉と態度をそのまま受け取っちゃダメよ。彼らは本音を隠すことを美徳とする人種なんだから。彼の言動も……『媚びを売る』だったんじゃない?」
「コビヲウル?何だそれは。」
Flatter、Suck up…うまい訳が見つからず類似する英単語をあげてはみるものの、オリヴァーの顔は疑問符を浮かべ僅かに傾く。
「あー、ほら、学生時代に教授に気に入られようとしてた人間をTeacher's petて揶揄さなかった?感覚的にあれが一番近いかしら。」
「……ふん、くだらんスラングだな。」
わかりやすく不機嫌に顔を顰めたところを見ると、どうやら言われていた側らしい。
それでも意味は伝わったのだろう。オリヴァーは小さく舌打ちすると、ガシガシと自らの頭を掻きみだした。
「シーは俺にコビヲウルだったって事か。」
呟いた自分の言葉に肩を落とした事を、この男は気づいているのだろうか。
「どうかしらね。……でもどちらにせよsikiとはもうしばらく一緒に仕事をすることになるんだろうし、マネージャーとの関係も良好にしておいてほしいものだわ。」
「そうだな…そうなるよう努めるさ。…………もう、泣かれるのはごめんだからな。」
オリヴァーはアイシングしている手と
は逆の手で水の入ったワイングラスを手に取り、中身を一気に煽った。空になったグラスをテーブルに置き、背もたれに体を預け天井を見上げる。
この男に限ってありえないけれど、それはまるで、泣くのを耐えているように見えて。ふぅ、と吐き出された吐息が痛ましくて思わず顔を顰めてしまった。
本当に、本当に珍しい光景だ。
他人のことなんていつもは全くといっていいほど気にかけないくせに。
「……もしかして、本気だったの?」
思わず問えば、天井を見つめたままオリヴァーはべつに、と呟いた。
「……初めてだったんだよ。怒られたのも……泣かれたのも。」
「あらまぁ。それはそれは。」
傷心というより、初めての事に困惑しているといったところなのだろう。
いつも尊大な態度のこの男にも、案外微笑ましいところがあったのだなと思わずクスリとしてしまった。
むすっと不機嫌に膨らんだ頬と尖った唇がいつもよりだいぶ幼く見えて、余計に笑いが込み上げてくる。
「何がおかしい。」
「いえ、なんでもないわ。あなたにも可愛いところがあるんだなと思っただけよ。」
「……うるさい。」
オリヴァーが体を起こし、再びこちらを睨みつける。頬を冷やしながらでは凄みは半減してしまっているけれど、これ以上機嫌を損ねないように、空になったグラスにまたミネラルウォーターを注いで差し出してやった。
「ねぇ、乾杯しましょ。」
飲む間、もう少しくらいは話に付き合ってあげる。言葉の代わりに目の前のグラスに、ワインクーラーからボトルを取りだしルビーレッドの液体を注ぐ。それを自ら手に取りほら、と促せば、オリヴァーもしぶしぶ水の入ったグラスを手にする。
「……ふん。」
ノンアルコールだろうとなんだろうと、プライベートでこうして付き合ってやる事自体レア中のレアなのだ。それがどういう事なのか、この男はわかっているのだろう。不機嫌に鼻を鳴らしつつも、手にしたグラスをカチンと合わせる。
この男の初めてかもしれない淡い想いが、いい方向へ向かうように。
もちろん口には出さなかったけれど、そんならしくないことを願いながらいまだ俯きがちなオーシャンブルーを目の前に、グラスのワインを傾けた。
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