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第18話 尊大で不器用な優しさ

世間に素顔を公表していない正体不明の音楽家sikiこと櫻井色(さくらいしき)。 アニメ映画の音楽を担当し鮮烈なデビューを飾った彼は、CM曲やドラマのBGM、映画音楽と次々と曲を作り続けている。 雑誌の取材はほぼお断り、テレビなんてもってのほか。音楽家でありながらコンサートを開くことすらせず、ひたすらに曲を作り、馴染みのスタジオでレコーディング。ただそれだけを繰り返してきたsikiの活動に最近見え始めた小さな変化。 ほんのわずかに変わり始めた色さんの本日のお仕事は、いつもとは違いなんとも変わった場所で行われていた。 都内の歴史ある神社の外苑に位置するこちらも歴史あるスケートリンク。都内であるにも関わらず周りを木々に囲まれた国内でも有数の広さを誇るこの場所で、オープン前の数時間を借りきっての映画撮影……正確に言えば一時間後に撮影が始まろうとしている現場に本日はお邪魔していた。 まだ朝日が顔を出したばかりのこの時間に、欠伸を噛み殺しながら僕はレコーディングエンジニアである黒澤さんと一緒にブース作りのための長机を設置している最中だ。 昨日レコーディングした、クライマックスに使用されるヴァイオリン曲。あの曲は作中ではこのリンクで主人公の男性が弾く設定になっているのだが、雑音のないスタジオで録音した音をスケートリンクで弾いているように感じさせるためにはある程度のエフェクトが必要になる。本日はその最終調整の為の現場確認と可能であればサンプルの録音を。それから、本日はこの場所でそのクライマックスシーンの撮影が行われる予定なので、直接演者に曲を届けるために早朝からこちらにお邪魔しているというわけだ。……まぁ、そういう建前で、と言った方が正しいのだろうけど。 音の調整は本来であればレコーディングエンジニアである黒澤さん一人で赴き調整をしてもいいわけだし、監督にデータで曲を送ればそれでよかったはず。 それでも色さん自身がここに来たがったわけは十二分に理解していたので、自ら出向くと決めた色さんに僕は異を唱えなかった。 人前にはなるべく姿を見せたくない、そのうえ朝が非常に苦手な色さんがそれでもここに来た理由。 「あの色さんが、関係者だけとはいえ人と会わなきゃいけない仕事を受けるなんてどうした事かと思ってましたが……なるほどねぇ、そういう事か。」 「ふふ。まぁ、そういう事です。」 作業の手を休めることなくポツリと漏らされた言葉に、なぜだか僕が思わず照れてしまった。 見れば黒澤さんの口元はニヤニヤと緩んでいる。多分、僕も今同じような顔をしているんだろう。 まだ撮影スタッフも監督も来ていない静まり返った空間で、僕は機材のコードを繋ぐ黒澤さんのお手伝いをしながら、リンクの隅に設けられたベンチに腰かける二人の存在を時折盗み見ていた。 イヤホンを両耳にはめ、ポータブルプレーヤーの音に耳を澄ませる一人の青年。白磁のような白い肌に後ろでひとつに束ねられた色素の薄い亜麻色の髪、同じ色の瞳は今は閉じられ音に集中しているようだった。 その横顔を、色さんは隣に座りただ黙って見つめている。 黒の長袖ウェアに黒のロングパンツ、細身な身体のラインがはっきりとわかる練習着を着てはいるけれど、決して折れそうな華奢な身体というわけではなく、アスリートとして引き絞られているのだということが遠目からでもわかる。お祖母様がフランス人であると聞いてはいるが、やはりどこか日本人離れした中性的な印象の人だ。 映画の撮影現場に誰よりも早く来てトレーニングをしていた彼の名は、美鳥飛鳥(みどりあすか)。役者ではなく今回の映画においてスケートシーンの振り付け、演技を担当するプロのフィギュアスケーターだ。 昨年までフィギュアスケートのジュニア選手として世界を相手に数々の戦績を残していた若干十七歳の元アスリート。けれど選手としてこれからという時に、競技者(アスリート)ではなく表現者(アーティスト)でありたいと現役を引退して世間を騒がせたのはつい最近の事だ。 十七歳。そう、色さんと同い年だ。 実は同じ高校のルームメイト。sikiの音に惹かれ、この音を表現したいと技術を磨いてきた美鳥さんと、自らの表現を貫き通す彼の信念と演技に惹かれた色さん。 演技に恥じない音を、音に恥じない演技を。互いに隣にならび立とうと努力を重ねている二人が、性別なんてちっぽけなものを超えた関係であることを知っているのは、今回の関係者の中では僕と、おそらくは勘づいているのだろう黒澤さんだけだ。 「今回の仕事、絶対成功させなきゃですねぇ。」 「はい。……何があっても、です。」 ニヤニヤと楽しそうに漏らされた言葉に、僕は気づかれないよう隣でぎゅっと拳を握りしめた。 ミキサーにスピーカー、全ての準備を終えても色さん達に声をかけることははばかられて、僕も黒澤さんも用意したパイプ椅子に腰掛けぼんやりと長めの休憩をとることにした。もちろん、若い二人の姿を視界の隅に映しながら。 ピクリと肩が震え、見開かれる亜麻色の瞳。戸惑うように左右に泳いだ視線は、再びぎゅっと閉じられる。 今美鳥さんが聴いているのは、おそらく昨日レコーディングしたばかりのオリヴァーのヴァイオリンソロ。あの時スタジオで僕達が感じたものを、彼も今感じているのだろう。 色さんは黙ってそんな美鳥さんに寄り添っている。 監督がsikiの曲で演技をする美鳥さんを観て映画のイメージが湧いたと、オファーがきたのが全ての始まりだった。話題性や宣伝、コネではない、自らの力でこうして肩を寄せ合い同じ音楽を聴いている二人を、僕は自分の事のように嬉しく誇らしく思っている。 だから、何があってもこの仕事は成功させなくちゃ駄目なんだ。 「さ、お二人が曲を聴いている間に、音響のテストしちゃいましょう。」 「お、彗さんやる気ですねぇ。」 勢いよくその場に立ち上がれば、パイプ椅子の背もたれに身体を預けていた黒澤さんも身を起こした。 「とりあえず適当に音流してミキサーのレベル決めちゃいましょうか。彗さん対岸に行けます?」 「わかりました。」 なるべく人に姿を見られたくない色さんの要望で、音響スタッフはいつだって信頼のおける黒澤さん一人。だから、僕はマネージャーという仕事以外にも出来ることはなんだってやらせてもらうつもりだ。だって僕はsikiも美鳥飛鳥も、一個人として大ファンなんだから。 視界に映る二人の姿に僕はまたぎゅっと拳を握りしめた。 脳裏によぎるオーシャンブルー。 聞こえていないはずの音が聴こえる。 シトラスの香水、耳元で聞こえた熱の灯った声、荒い息遣い、そして……唇に感じた温もり。 僕はそれら全てを振り払うようにパシン、と自らの両頬を叩き、眼鏡を深くかけ直した。

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