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閑話 事務員でマネージャー

クリスマスに、サンタにお兄ちゃんがほしいと願って両親を困惑させたことがある。 父親は世界的に名の知れた指揮者、母親は元オペラ歌手。多分、望めばほとんどの物が手に入る恵まれた環境の中、どうやったって叶えられないその願いを口にしなくなったのは、いったいいつの事だっただろう。 「えっと、はじめまして、事務員の小比類巻彗(こひるいまきすい)と申します。」 父親の古い友人が立ち上げた小さなレコード会社。クラシックとジャズを専門に扱う小さなその会社でCDを出してみないかと声をかけられてから、何度か通わせてもらっていたある日。仕事のオファーが来たから話したいんだと社長に呼び出され、連れていかれた先は何故か事務室だった。狭い空間にデスクが五つ。そのうちの一つには、新品らしいスーツに身を包んだ小柄な人がいた。 パソコンでなにやら作業していたその人は、社長に声をかけられ席を立つと、小学生の自分に向かって物凄く丁寧に一礼してくれた。 少し緊張していたのか早口で告げられた名前に、思わず首をかたむける。 「こ、…ひ?」 「こひるいまき、です。覚えにくいし長いので、会社の皆さんからは名前で呼んでいただいています。どうぞ、(すい)と呼んでください。」 「すい…さん。」 名前を呼べば黒縁の眼鏡の奥にある大きな瞳がにっこりと笑った。 「よろしくお願いいたします。……ええっと、社長のご親戚ですか?今日は会社の見学に?」 「え、あの…」 優しい声で聞かれて、なんて答えていいのかわからなかった。 そういえば、なんでこんな場所に連れてこられたんだろう。 わけがわからなくて彗さんとお互い首を傾げていたら、それを隣で見ていた社長のじいさんがシワの深い顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。 その手がぽん、と俺の肩にのせられる。 「この子なんだよ、『いつかの夏』を作ったの。」 「……え、」 目の前の瞳が丸く見開かれる。 ぽかんと口を開けた彗さんはしばらく時間が止まったみたいに固まって、それから突然ビクリと肩を震わせてから思いっきり後ろに仰け反った。 「え、え、えええっ!?っ、た、」 ガンッとデスクに背中をぶつけて、多分すごく痛そうだったのに、彗さんはそんな事気にしていないみたいだった。 「え、だって、どう見ても、あの、お歳は…」 「十二歳だって。凄いよねぇ。」 「じゅ、うに…」 人には知られたくないって言っていたはずなんだけど。隠していたはずの情報をただの事務員さんにペラペラと喋りだしたじいさんは、オロオロするばかりの彗さんを前に、やっぱりニコニコ笑ってる。そのくしゃくしゃの笑顔が今度は俺に向けられた。 「あのね、彗君なんだよ。新しい会社立ち上げたって挨拶メールを各社に送る時に『いつかの夏』一緒に送ってくれちゃってたの。」 「え。」 「しゃ、社長!」 「僕達にも黙ってこっそり送ってたんだよ。まぁ、おかげで映画に使いたいってオファーがきてお仕事決まりそうなんだけどね。」 勝手にって、この人どう見ても入社したばかりの新人なのに。 「あ、あの……勝手な真似をして申し訳ありませんでした。」 困ったように眉を下げた彗さんの視線が、ふっと下に落ちていく。 「宣伝活動はしないと営業の方が話しているのを聞いてしまって 。あの曲も作曲者も、もっと多くの人に知られるべきだと、その、つい……」 しゅんと肩を落とし、目の前の人は小学生の俺相手に申し訳ありませんでしたと深々と頭を下げた。 この部屋に入った時の反応を見る限り、この人は俺が誰の息子なのかを知らないはずだ。それなのに、ただの十二歳のガキに、この人は本気で頭を下げている。 親の顔色を伺うんじゃなくて、俺に直接言葉をくれる大人なんて初めてかもしれない。そんな人に対してなんて声をかけていいのかわからず固まっていたら、頭の上からじいさんの優しい声が落ちてきた。 「彗君、(しき)君、ここはあくまでレコード会社。CDを作って出すのがお仕事なんだよね。アーティストは基本レーベルに所属して、そこでマネージメントをしてもらうんだ。」 わかるかな?と聞かれて、俺も彗さんも頷いた。 「でも、色君自身は宣伝や広告活動を全く望んでないんだよね。必要なのは色君がCDを出したいと思った時にスケジュール調整してくれて、挨拶メールに曲を紛れ込ませるくらいのわずかな宣伝をしてくれるような人……でしょ?」 「え、」 楽しそうに告げられた言葉に、ビクリ、彗さんの肩が大きく揺れた。 ああそうか、だからこんな場所に。 ようやくじいさんの言いたいことが見えてきて、俺は改めて目の前の人を見つめる。 「あ、あああの、そ、それは、もしかしなくても、」 「いい案だと思うんだけどなぁ。レーベルは必要ないけど、マネージャーという窓口は必要でしょ?」 社長と俺をえ、え、と挙動不審に見つめていた彗さんはその両手と首を全力でブンブン振った。 「む、むむ無理です!私には、この方を支える自信なんて……」 めんどくさいとか、ガキのお守りはしたくないとか、そんな理由じゃないらしい。 どこの誰とも知らない子供に、その子供が作った曲に、この人は本気で敬意を払った上で荷が重いですと否定している。 どうかな?と社長にふられて、俺は迷わず頷いていた。 「彗さんがいい。マネージャーがいるって言うなら、俺は彗さんにマネージャーになってほしい。」 「っ、そんな…」 誰かの力を借りなきゃいけないなら、俺を俺として見てくれる人がいい。そしてきっとこの人以上の人はいない。なんでだろう、子供ながらに確信があった。 「お願いします。」 無理ですと再び言われてしまう前に、俺は目の前の人に思いっきり頭を下げる。 「あ、頭を上げてくださいっ、」 慌てる声といっしょに恐る恐る伸ばされた手が、俺の肩に添えられた。 「あの……」 頭を下げる俺よりも目線を下げようと、彗さんは俺の前で膝をつく。 「貴方がそのお年で、一体どれだけの音を聴いて、どれだけの努力を重ねればあんな曲が作れるのか……私には想像もできません。想像できない程度の努力しかしてこなかった人間なんです。本当に、こんな私でいいのでしょうか?」 黒縁眼鏡のレンズの奥から、大きな瞳がじ、と不安げに俺を見上げた。 だから俺も真っ直ぐにその瞳を見返して、大きく頷く。 「彗さんがいい。」 はっきりと告げれば、長い沈黙の後、ふぅ、と小さなため息をついてから、彗さんは顔を上げた。 「こんな私でいいと仰るなら、誠心誠意努めさせていただきます。」 眼鏡の奥で大きな瞳が細められる。 ふわりと優しく灯った笑みは、嘘偽りや社交辞令ではないこの人の心からの気持ちなんだって伝わってきて、俺のの口元も気がつけば緩んでいた。 「よろしくお願いします。」 差し出した右手を、彗さんは優しく握り返してくれる。 「うんうん、よかった。」 くしゃくしゃの笑顔が見守る中、狭い事務室の中で交わした握手。多分きっとこの優しい温もりは、これから先の長い時間を俺と一緒に歩んでくれる。そんな予感がしていた。 「なぁ、彗さん。マネージャーの仕事って大変?」 ハンドルを握るその横顔をぼんやりと眺めながら何となく昔を思い出して、俺はそう聞いてしまっていた。 スケート場での作業を終えてスタジオに向かう車の中。機材を積み込んだ黒澤さんとは車を別けて、いつものように彗さんの運転で見慣れた道を走っている。信号待ちで車を止めてから、彗さんは俺の方に視線を移した。 「大変……と言えるほど忙しくはないですよ。色さんが仕事をセーブされているおかげで、事務業と兼業できていますから。私としてはもう少し忙しくてもいいくらいですよ?」 黒縁眼鏡のレンズ越しに俺を見つめていた瞳はふふ、と細められてすぐにまた前へ。信号が青に変わり、車はゆっくりと走り出した。 「突然どうしたんですか?」 「あ、いや別に。……事務の仕事とマネージャーの両立は大変そうだなって思って。」 ちょっと聞いてみたかっただけだと言えば、彗さんはそれ以上深く聞いてくることはなかった。 こうして彗さんにサポートしてもらいながらの音楽活動はもう六年目になる。確かに今更な質問だろう。 だけど、当たり前になってしまっているこの事実に、俺は今向き合わなければならない時なんだと思う。 チラリとハンドルを握るその横顔を盗み見る。 彗さんと初めて会ったあの日に感じた予感。それを確信に変える為に話をしなくちゃいけないのはわかっているのに、反応が怖くて俺はずっと話を切り出せずにいた。 今日もやっぱり言い出せないまま、目的地のスタジオはもうすぐそこだ。 「あのさ、…」 「色さん、本日は夕方までスタジオをおさえていますから、時間は気にせず作業されて下さいね。」 「あ、ああ。ありがとう。」 ああくそっ、どうにもタイミングが掴めない。 そうこうしているうちに車は駐車場へと入っていく。 「?今何かおっしゃろうとしてませんでした?」 「へ?あ、あー、えっと、」 もう、今日はそのタイミングじゃない。また別の機会に話そう。……今年に入ってからずっと同じ事を繰り返している気はするが。 言葉に詰まって俺は無意識に自らの髪を掻き乱していた。 「えーっと、……あ、彗さん好きなお菓子とかある?」 「へ?お菓子?」 この仕事が一段落したら、うん、その時こそは菓子折でも用意して頭を下げよう。今度こそちゃんと。絶対。……たぶん。 「お菓子、……そうですね…」 俺の突然の意味不明な質問に、けれど彗さんはバックで駐車しながらも真剣に考え……そして何故かふふっと笑った。 「グミ、でしょうか。」 「は?」 予想外の答えに思わず素っ頓狂な声が出た。 いや、そういう菓子じゃなかったんだけど。と俺が口を開くより早く、何故だか彗さんは本格的声を上げて笑い始めた。 「す、彗さん?」 「いや、すみません、ふふっ、くくっ、」 何がツボに入ったのかよくわからないけど、なんとか車を停車させ腹を抱えて笑う彗さんに、俺はやっぱり何も言えないままだった。

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