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第23話 何が悪い?
早朝に録音したサンプル音源を元に、エコーレベルを最終調整。ついでにメイン奏者が変更になったヴァイオリン曲の重奏パートだけ先行で録りなおしと、本日の作業は順調に進められた。
「……うん、問題ない。」
最終チェックの後、色 さんからその一言が出て、僕も黒澤さんもほっと胸をなでおろす。
そもそも色さんは変なこだわりも我儘も言う方ではなく、基本的にレコーディングはいつも問題なく進行する。尊大で我儘なイレギュラーがなければ、いつだってこうして平穏無事に終わるのだ。
これで、残すところはオリヴァーが演奏を代わることとなったヴァイオリン曲五曲を残すのみだ。録音できるのはオリヴァーが日本公演の為に再来日する二週間後だから、とりあえず今できることは完了したことになる。
そう思ったらここ数週間の疲れが一気に溢れ出てきて、僕達はそれぞれはぁ、と誰からともなく深く息をはいていた。
まだ夕方と呼ぶにも早すぎる時刻。色んなことから解放されて、今日こそは本当にゆっくりと過ごすことが出来そうだ。
「そういえば色さん、本当に曲を書き直しされたんですか?」
背もたれに身体を預けてぐーっと伸びをする色さんと黒澤さんに、僕はコンビニで購入してきたコーヒーを手渡した。
「ん、まぁ何とか。」
ご丁寧にいただきますと僕に一声かけてから手にしたコーヒーのカップに口をつける色さん。その目元にはうっすらと隈が浮かんでいる。
オリヴァー用に二曲書き直すと昨日言ってはいたが、一日でそれを成す為におそらく睡眠時間を削ったのだろう。
「一晩で二曲とかエグすぎでしょ。アメリカの事務所の方に後日送ればよかったのに。」
「……それで、あいつが納得すると思います?」
黒澤さんの言葉に、色さんはげんなりと肩を落とした。
確かに。
早くよこせ、まだなのか、気に入らなければ弾かないからな……不機嫌に鼻を鳴らし、捲し立てるヴァイオリンの貴公子様の姿が容易に想像できて、僕達はほとんど同時にはぁ、と重いため息を吐き出していた。
「まぁ実際オリーのやつもコンサートをこなしながら弾きこまなきゃいけないから早いに越したことはないだろうしな。初のワールドツアーを俺のせいで失敗させる訳にはいかないから。」
苦笑いと共に呟いて、色さんはコーヒーを一口。
「……俺にはわからない苦労もあるんだろ。」
ぽつりと呟かれた言葉は、適当な相槌を返せるような響きではなくて。僕は何も言えず、手にしていたコーヒーをこくりと飲み込んだ。
黒澤さんもチラリと横目で色さんを盗み見て、それから僕と同じようにコーヒーに手をつける。
多分、僕達は今同じ言葉を飲み込んだんだろう。
――色さんは、コンサートしないんですか?
もっと世に出て欲しいなんて、個人的な意見を押し付けるわけにはいかない。世界に名を知られるあのマエストロ、櫻井誠一の息子だと知られれば、これまで色さんが地道に積み上げてきたものが彼の息子という事実に上塗りされてしまうかもしれないのだから。
僕にできることは、こうしてコーヒーをお渡しして、少しでも彼の心労と疲労を取ってあげることくらいだ。
できることの少なさに思わずため息が漏れそうになったけれど、そこはぐっと耐えてコーヒーと共に飲み込んだ。
「で、完成した曲は今朝渡したんですか?俺もちょっと見てみたかったんですけど。」
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、話題を変えた黒澤さんに色さんはいいやと首を振った。
「渡そうと思ってたんだけど、あいつ話を聞く前にどこかに行きやがって。マネージャーさんに今日の予定聞かれてここにいるとは話したんだけど。」
「あー、そういえば血相変えて彗 さん連れて行っちゃいましたもんね。」
「え、あいつまた彗さん引っ張り回してたのか!?」
「え、っと…」
あ、これは駄目な方向に話が流れてしまっている。
色さんと黒澤さんの視線が僕に突き刺さる。その目は明らかに説明を求めていた。
これは、どうしたら……
まさか正直に全てを話す訳にはいかない。けれど、二人が無言を許してくれるとも思わなかった。
「な、何もされてないよな!?」
されました。なんて言おうものなら順調に進めてきたお仕事が台無しになってしまうかもしれない。
ダンッとテーブルを叩きつけ、身を乗り出してした色さんに、僕は思わず逃げるように視線をそらせた。
「えっと、…」
どうしよう。どうしたら。
狭いスタジオ、逃げる口実なんて思いつかない。
崖っぷちに追い詰められて思わずぎゅっと瞳を閉じた瞬間、僕の背後のドアがガチャリと勢いよく開いた音がした。
「おいシキ、来てやったぞ。」
ノックも挨拶も遠慮もなし。
幸か不幸か絶妙なタイミングであらわれたオリヴァーに、僕はごくりと息を飲んだ。
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