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第26話

「お、オリー…お前、これ、」 珍しく取り乱す(しき)さんに、オリヴァーはふん、と鼻を鳴らす。 「コンサートの最後に今回の映画のテーマ曲を弾くことにした。ピアノはお前以外ありえないだろ?」 「な、何勝手に…」 「許可なら今朝監督に取った。後は音楽監督のシキの了承だけだ。」 何が、起きてる? 今目の前で買わされている会話は、現実……? 急展開すぎて、僕も黒澤さんも呆然とするばかりだ。色さんもまだ現実を受け入れられずにいるようで、渡された書類を手にぽかんとしている。 二週間後に迫ったコンサート。世界中から注目を浴びているヴァイオリニストの、初の日本公演。会場は国内最大規模。 そこに、出る? 色さんが、弾く? 「音楽家が客席に座ってどうする。ゲストで出ろ。」 オーシャンブルーの瞳が色さんを射抜く。 オリヴァーだけじゃない、答えを求めて皆の視線が集まる中で、色さんは出演依頼の書類を片手に瞳を伏せた。 何かに耐えるかのように口をぎゅっと引き結び、それからゆっくりと頭を振る。 「……断る。今世間に顔を出して、俺が櫻井色(さくらいしき)だと知られるわけにはいかない。」 手にしていた契約書をそのまま返そうとしたのだけれど、オリヴァーは片手で制しそれを拒否する。 「いつまでそうやって隠れているつもりだ?このオレが認めた音だぞ、キサマの音楽はここだけに留まっておくような音じゃないだろうが。」 オリヴァーの言葉に、僕は思わず息を飲む。 ずっと、ずっと思ってきた事だ。 この人はもっと世に出て多くの人に知られるべきなんだ。ずっとずっとそう思って、そう願ってきた。 だけど、世に顔を出すという事は、色さんが誰なのかを知られてしまう事。あの櫻井誠一の息子だと知られて、今まで作り上げてきたものが彼の息子だからという事実に埋もれてしまう事を色さんは何より恐れている。だから僕はずっと面と向かって言えなかった。 オリヴァーの言葉は、ずっとずっと言いたかった僕の言葉だ。 「セイイチサクライの息子だからなんだと言うんだ。いい加減に覚悟を決めたらどうだ?」 ピクリと色さんの肩が震える。 遠慮も容赦もない言葉。本来なら色さんを守るために止めに入らないといけないところだと思う。だけど僕は動けなかった。そしておそらくは黒澤さんも。 聴きたい、色さんの本音を。 話してほしい。 僕は祈るような気持ちで俯く背中を見つめる。 色さんは顔を上げ、再びオーシャンブルーを見つめた。 「……俺だって、観客の前で弾いてみたい。けどな、それは今じゃねぇんだよ。」 絞り出すように呟かれた声はとても苦しげだった。 色さんの顔を見ることはできなかったけれど、きっと眉間に深いしわが刻まれていることだろう。 色さんの答えに、オリヴァーは腕を組み不機嫌に鼻を鳴らした。 「今でないならいつなんだ。」 「少なくともあと三ヶ月は駄目だ。」 具体的に出てきた数字にオリヴァーの片眉が跳ね上がる。 色さんは椅子から立ち上がり、手にしていた書類をオリヴァーに押しつけた。 「親父の息子だと知られれば、周りの環境は良くも悪くも絶対に変わる。それは俺だけじゃない、俺の周りの人達も巻き込む事になる。」 そう言って色さんはチラリとこちらを振り返る。僕へ、それから黒澤さんへ。見つめるその瞳には強い決意の色が滲んでいた。それがまた、オリヴァーへと向けられる。 「俺はな、まだ十七のガキなんだよ。周りに何があっても、守ってやることもできなければ、責任すらとらせてもらえない。……今は、何もできないガキなんだよ。」 色さんの言葉がずん、と響いて、心臓の奥が震えた。 まさか、そんな風に考えていたなんて。 多くの人に知ってほしい。音楽を聴いてほしい。僕はずっとそれだけを考えてきた。だけど、色さんは自分の音楽だけじゃない、僕達のことまでずっとずっと考えてくれていたんだ。 色さんがどれだけの想いを抱えて生きてきたのか、今ようやく分かった。 世に出てほしいなんて、僕の思いはどれだけ軽いものだったのか思い知らされた。 「今はその時じゃないんだよ。……出てぇけどな。」 悔しさを押し殺した声で色さんは言う。 ぐ、と押し返された書類。オリヴァーはそれを受け取り、それからふ、と口の端をつりあげた。 「出たいなら出ればいいだろ?」 当たり前のように告げられた言葉。 あまりにさらりと言われてしまい、色さんは一瞬ぽかんと動きを止める。 「演奏するのに出自も歳も、顔を出すも隠すも関係ない。自由だろ?」 「……は?」 「顔を出さずに弾く方法などいくらでもあるだろうが。」 オリヴァーは呆気に取られる色さんをよそに、楽しげに笑う。 「何があっても責任はオレがとってやる。……オレは実力も権力もある大人だからな。」 からかうようにオリヴァーが目を細めれば、色さんは少し困ったように苦笑して、それから大きく息を吐き出した。 「ったく、なんでお前は毎回毎回そう偉そうなんだよ。」 「ふん、悔しければ早くここまで上がってこい。」 ひらひらと見せつけるように目の前で振られた封筒を、色さんはオリヴァーを睨みつけながら奪い取った。 「出りゃいいんだろうが。顔は出さない、その条件は守れよ。」 ……うそ、 皆が見つめる中、色さんは胸ポケットに挿していたペンを取り出し、封筒から取り出した書類にサインを殴り書いた。 サイン、した。 つまりこれは、 これは、 先程まで殴り合いの喧嘩でも始まるんじゃないかとヒヤヒヤしながら見ていたはずなのに、気がつけば夢にまでみていた光景が現実になっていた。 色さんがサインした書類をアマンダさんが受け取る。その隣で満足げに笑い色さんの背中をパシンと叩くオリヴァー。その光景がぐにゃりと歪んでいく。 僕の視界は眼鏡をきちんとかけているにもかかわらず、じわりと滲んで、込み上げてきたものが頬を伝った。

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