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第28話 世界最高の音楽家

友人として毎回食事に付き合え。その言葉通りに、僕はスタジオでの練習を終えたオリヴァーに捕まり、当然のように夕食へと連行されることとなった。 逃がさないぞと腕を捕まれ、車の中に引きずり込まれて。それでも、もう彼に対する恐怖の感情は僕の中のどこを探しても見当たらなくなっていた。 空が茜色から群青へと色を変え始めた時刻。駅前のコインパーキングに車を停め、やって来たのは昨日と全くおなじ店の前。小さな看板に書かれたcomodo(コモード)の文字が今日も淡い光に照らされていた。 「あの、昨日と同じお店でいいんですか?」 「ここの食事は気に入った。それに、今度は代金を払うと約束したからな。」 言うが早いかオリヴァーは蹴り飛ばさんばかりにドアを開け中へと入っていく。カラランッ、と勢いのよすぎるドアベルの音が店内に響いた。 「おい、オーナー、約束通り来てやったぞ。」 「ちょ、」 本日もキャップとサングラスは絶対外すなと念押ししたにもかかわらず、カウンターの奥にいたオーナーにサングラスを外して声をかけたオリヴァーは、迷うことなくオーナーの目の前のカウンター席へと向かう。 寡黙なオーナーさんは一瞬顔を上げ目を見開いたが、すぐに何事も無かったかのようにいらっしゃいと一言僕らに声をかけてから、お冷を用意するためにそのままくるりと背を向けた。 夕食にはまだ少し早い時間。店内には幸いにも他にお客はおらず、カウンターの一番奥の座席にヴァイオリンケースを立てかけ、その隣に腰掛けたオリヴァーは、ついにはキャップも脱いでサングラスと共にカウンターテーブルに投げ出してしまった。制止の声も手も間に合わず、太陽よりも明るいプラチナブロンドが晒される。 「っ、オリヴァー、」 オーナーの昨日の様子を見る限り正体はバレてしまっているのだろうけれど、それにしたってもう少し慎重になってくれないだろうか。 「ん?どうした、シー。早く来い。」 僕の心配なんてよそに、楽しげに手招されれば不安も不満もため息として吐き出すしかない。お客さんがきたらちゃんと隠してくださいねと念押してから、僕もオリヴァーの隣へと座った。 無言でカウンターにお冷を置いてくれたオーナーさんに、僕はぺこりと一礼する。 「あの、昨日は大変お騒がせしました。」 「この店じゃ楽器の演奏は自由だ。……あんたらが誰だろうと好きにしていい。」 返ってきたのは流暢な英語だった。 ああ、もう。わかってはいたけれど完璧にバレてる。色々と、バレてしまっている。 「また今日も芯のないパスタ食ってくか?」 ニヤリとわずかに口角を上げてそう言われれば、カウンターにめり込まん勢いで頭を下げるしかなかった。 あっはっはと隣でご機嫌に大笑いするオリヴァーの足をテーブルの下で軽く蹴飛ばしてやったけれど、何処吹く風だ。 「ナポリタン、あの食感はクセになるな!ケチャップの安っぽい味付けがまた…むぐっ、」 「オリヴァー!」 慌てて彼の口を手で塞いだけれど、もう遅い。オーナーさんの口からふ、と吐息がもれる。 オーナーさん、寡黙で表情もほとんど変えない方だから読み取れないけれど、これは果たして怒っているのか呆れているのか。 「……他にもメニューはあるからゆっくり決めな。」 冷や汗ダラダラの僕をよそに、眉ひとつ動かす事無くほらよ、とオーナーさんからメニュー表が差し出される。それを手にしたオリヴァーの瞳がまん丸に見開かれた。 「おおっ、さすがオーナー!」 嬉々としてメニュー表をめくり始めたオリヴァー。よく見れば、昨日までは日本語だけで表記されていたメニューに英語訳がそえられている。 昨日の今日だというのに、もしかせずともこれは。 「あの、わざわざ作ってくださったんですか?」 恐る恐る聞いてみれば、返事の代わりに返ってきたのはふ、という小さな含み笑い。 「……気持ちいい食べっぷりの常連さんはいつでも大歓迎だ。」 英語でポツリと落とされた言葉には、オリヴァー・グリーンフィールドという人に擦り寄るわけではなく、純粋な好意が感じられた。どうやらオリヴァーを気に入ってくれたようだ。 ……オーナーさん、正直結構怖い人なのかな、とか思っていたのだけれど。 遠慮も謙遜も配慮もまるで無し、傍若無人な振る舞いをしていても憎めないのは、オリヴァー・グリーンフィールドという人のなせる技なのかもしれない。 よかったと胸を撫で下ろす僕の隣で、なぜだかオリヴァーは自慢げに胸をそらせる。 「ふふん、そうだろう?今日は昨日より食べてやるからな!」 「えっ、ちょっと、」 「オーナー、オムレットライスと、それとやっぱりナポリタンだろ、トーフサラダだろ、あとは…」 「ひぃっ、ダメですってば!」 オーナーの言葉に力を得てメニューの端から端まで音読し始めたオリヴァー。肩を掴んでやめてくださいと揺すってもきいちゃくれない。 結局オリヴァーの暴走を止められず、ほどなくしてカウンターにはオーナーが笑いながら提供してくれた料理が所狭しとならんでしまい、僕はまた自分の胃袋の限界と戦うこととなってしまったのだった。

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