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第29話

オリヴァーが気になったメニューをひたすらに頼み、出てきた料理を手伝えと強制的にシェアされる。 わずか二日で店のメニューの八割を制覇して満足気にデザートのパフェをつつくオリヴァーの隣で、僕は死にかけていた。 本当に文字通りお腹いっぱい。もう水一滴すら通る気がしない。カウンターに突っ伏す僕の隣で涼しい顔でパフェの苺を頬張るオリヴァーの胃袋は宇宙空間に繋がっているに違いなかった。 「まったく、情けないぞシー。」 「僕の方が普通なんですよ……うっ、」 口を開いたら駄目だ。少しでも動こうものなら惨事になりそうで、僕は胃袋がフル稼働して容積を減らしてくれるまでは、じっと動かずご機嫌な貴公子様のお食事が終わるのを大人しく待つしかなかった。 サラリーマンと近所の大学生が主なお客なのだろうこの店は、本日日曜日の為か今の所僕たち以外のお客はいない。おかげでオリヴァーも周りを気にすることなく食事を楽しめているようだ。 「いつもどこへ行っても周りが騒がしくなるからな。ここは本気で気に入った。」 「たいしたもんは出せないがな。……いつでも来ればいい。」 オーナーさんの言葉にオリヴァーはパフェを頬張ったまま子供みたいに無邪気に笑う。 整った顔がくしゃりと笑うその横顔に、なぜだかドキリとした。 ヴァイオリニストとしての実力もさることながらこのルックスだ。彼が変装なしで街を歩けばクラシックファン以外にも彼に気づき黄色い声を上げる人間は大勢いるだろう。さらにはアマンダさんと共有していた本日のオリヴァーのスケジュールによれば、朝からいくつかの取材と写真撮影、さらには移動時間にもリモートで次のコンサート地との打ち合わせまでこなしているはず。 公私共に彼が素を見せて安らげる場所は本当に少ないのだろう。 「……嫌になったりとか、しないんですか?」 「ん?まぁ、こいつの為だからな。」 オリヴァーの手が隣の座席に立てかけられていたヴァイオリンケースにコツンと触れた。 世界に数える程しか現存していない名器中の名器、グァルネリ・デル・ジェス。常に傍らに置いているそれは、音楽家として大成した証でもある。 オリヴァーのオーシャンブルーの瞳が、一瞬チラリとカウンターにつっ伏す僕へと向けられ、それはすぐにまたパフェの苺へと戻される。 「こいつはステージが広ければ広いほど良い声で鳴くからな。この音のためなら広いホールを埋める観客を集めてやるし、技術も磨いてやるさ。」 パフェグラスの底に残っていた最後の苺をつつきながら、当たり前のように言われた言葉は、僕にとっては衝撃だった。 彼は彼の音を最大限に引き出すためにグァルネリを手にしたのだと、そう思っていたのに。もしかして、真実は真逆なんじゃ…… 「……どうして、グァルネリだったんですか?」 突っ伏していたカウンターから思わず身を起こして聞いてしまっていた。 けれど僕の疑問に、オリヴァーは眉間にわずかに皺を寄せなんとも不思議そうに首を傾げた。 「シーは恋に落ちるのに理由がいるのか?」 「へ?」 突然の言葉にぽかんと口を閉じることすら忘れてしまった。 「たまたま行ったコンサートでグァルネリの音色を聞いた。その一ヶ月後には爺さんのつてを頼ってイギリスの大学でクラシックを学んでいた。」 オリヴァーは隣の座席に立てかけていたヴァイオリンケースを抱き寄せる。 「惹かれるのに理由なんていらないだろ?言葉にできる程度のものならここまで固執したりしないさ。」 「……、」 ケースに軽く頬擦りし、うっすらとうかべられた笑みにごくりと息を飲んだ。 彼がヴァイオリニストとして世に出てきた時、グァルネリに愛された男だと世間は評した。だけど、そうじゃない。これは、オリヴァー・グリーンフィールドという人の熱烈で一途な愛なんだ。 ああ、だから僕はこの人のいる場所に立てなかったのか。 こんな熱情、僕は知らない。 僕が二十数年の間ヴァイオリンに捧げていた感情は、なんてちっぽけなものだったんだろう。 「シー、どうした?」 オリヴァーの瞳がじ、と僕を覗き込む。僕、今どんな顔をしているんだろう。オーシャンブルーにはわずかに心配の色が滲んでいて、僕は慌てて何でもありませんと両手を振る。 「そ、そろそろ出ましょうか。」 ぐるぐると胸を渦巻く感情はこの人に伝えるべきものではない。ましてや僕はそれを語る資格すらない。 深く追求される前に、僕はごちそうさまでしたとマスターに声をかけその場に立ち上がった。 「ほら、明日はアメリカに戻るんでしょう?飛行機早いんじゃないですか?」 「……」 無理やり笑顔を作る僕にじっとりと物言いたげな視線が向けられる。 これ以上踏み込んでこないでほしいと線引きをしたつもりなのだけれど、そこはオリヴァー・グリーンフィールド。空気なんて読むつもりはないらしい。 「シー、どうしたと聞いている。」 鋭さを増したオーシャンブルーが近づいてくる。オーナーさんに助けを求めようにも我関せずと黙々と食器を洗っていらっしゃるし、他にお客もいない。 逃げ場が、ない。 「……ヴァイオリン。この話題になると、シーはいつも泣きそうな顔をする。何故だ。」 オリヴァーの手が、僕のネクタイを掴んだ。 どうしたら。 ぐ、とネクタイごと身体を引き寄せられ、僕は思わずギュッと瞳を閉じる。 カランッ 店のドアベルが鳴ったのは、まさに絶体絶命のその瞬間だった。 「っ、」 オリヴァーに気を取られていて反応が遅れてしまった。 僕は慌ててオリヴァーを突き飛ばし、彼を背後に隠すように立ったのだけれど、 「な、オリヴァー・グリーンフィールド……なんで、こんな所に、」 オリヴァーがサングラスとキャップを被る前に、店に入ってきたサラリーマンらしき男は僕達を目にして入口で驚愕に固まった。 しまった。早く店を出なければ、騒ぎになるかもしれない。 「ひ、人違いです、っ、行きましょう。」 慌てて伝票を掴み、オリヴァーを急かしたのだけれど、 「……待て。見覚えがある。」 「え?」 一応サングラスとキャップを被ったオリヴァーだったが、入口に立ちすくむ男を見て動きを止めた。 サングラスを僅かにずらし、オーシャンブルーがじ、と男を見つめる。 オリヴァーは今回が初来日。そもそも毎夜こうして僕を食事に誘うくらいなのだから日本に知り合いと呼べる人間はほぼいないはず。 とすれば、彼は音楽関係者だろうか。 歳は僕と同じくらいの、二十代後半。つり目がちな気難しそうなその面立ち。スーツを着てはいるものの、インナーはワイシャツでノーネクタイ、ジャケットのボタンもとめられてはいない。仕事終わりだからかもしれないが、そういえばサラリーマン……にしては少しラフな格好かもしれない。 男はオリヴァーからの視線にビクリと肩を跳ねさせる。見定めるようなオーシャンブルーに耐えきれなかったのか視線をそらせたその先で、その瞳が僕を映して止まった。 「え、おま……、こひ…こひ……っ、」 ふるふると震える指が、幽霊でも見たかのように信じられないと僕を指さす。 「なんで、なんでお前がオリヴァー・グリーンフィールドと一緒にいるんだよ!」 「え?」 オリヴァー、ではない。彼は明らかに僕という存在を認識し、声を荒げている。 彼は一体…… 「シー、知り合いなのか?」 オリヴァーからの問いかけに、僕は答えることが出来なかった。

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