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第30話

「なんで、お前が……!」 誰?いや、でもどこかで見た覚えが。 ぎ、と僕を睨みつける男に、その視線に、どこか既視感を覚えている自分がいた。 けれど、僕がその理由を思い出すよりも早く、オリヴァーが口を開く。 「思い出した。キサマ、今朝の記者だな。」 厳しい口調で問われ我に返ったのか、目の前の男は視線を僕からオリヴァーへと移した。 「ああ、その、今朝はありがとうございました。」 気まずそうにオリヴァーへ視線をめぐらせ、形だけの一礼をする。けれど、チラリと僕に向けられる視線はまるで恨みでもあるかのように険しい。 彼はおそらく音楽雑誌の記者なのだろう。オリヴァーが午前中こなしていたいくつかの雑誌の取材。おそらくそのうちの一つを彼が担当していたはず。 でも、世間に素顔を晒していない色さんのマネージャーである僕は、ネットやメールでやり取りしたことはあっても雑誌記者さんの顔見知りなんていないはずなのだけれど。 「おいお前、シーの知り合いか?」 疑問に首を傾げる僕の態度にか、それともオリヴァーの高圧的な態度にか、どちらにせよわかりやすくむすっと口元を引き結んだ目の前の彼は、僕を睨みつけたまま吐き捨てるように言った。 「大学の同窓ですよ。……もっとも師事していた教授は違いましたし、接点はそうなかったですけどね。」 「あ。」 そうだ、思い出した。 確かに彼の言うとおり、大学で何度か姿を見た事がある。名前までは覚えていないけれど、専攻は僕と同じヴァイオリンだったはず。 「学内オケで何度か一緒……でしたね。」 「そうだよ。お前と違って俺は常に選考通ってオケにいたからな。面子はほぼ覚えてる。」 棘のある言葉に、返答につまる。 でも、何となくこの人の不機嫌な理由がわかってしまった。 僕も彼も、ヴァイオリンの道を志し大学で学んでいた。けれど、彼は今音楽雑誌の記者。 彼も、おそらくは目指していた道を諦めたのだろう。……学内オケの選考にすらたびたび落ちていた僕と同じように。 先程からオリヴァーにも状況が理解できるようあえて英語で会話していたが、オリヴァーだけが僕達の間に流れる険悪な空気の理由が理解出来ず眉をひそめていた。 「なんだ、同窓とはつまり同じヴァイオリン弾きじゃないのか?なぜ睨み合う。」 「あ、あの、久しぶりに顔を合わせたからビックリしただけですよ。ね?」 オリヴァーの手前険悪な空気を何とか払拭しようと話をふってはみたものの、彼の視線が和らぐことはなかった。 「……なんでお前がこの人と一緒にいるんだよ。大した実力もなかった負け犬のくせに。」 今のは日本語。 意味が理解できたのは、僕とカウンターの隅でグラスを拭きあげているオーナーさんだけだっただろう。 オーナーさんやオリヴァーのいる前であまり揉め事は起こしたくない。 僕は仕方なくこの場を収めるために手にしたままになっていた伝票をカウンターに置き、彼の前に進み出てスーツの内ポケットにしまっていた名刺を差し出した。 「オリ…グリーンフィールド氏とは今仕事でご一緒しているだけです。僕自身は別にヴァイオリニストでも何でもな…」 「な、sikiだと!?」 僕も音楽の道で成功したわけではないと伝えたかっただけなのだけれど、目の前の彼は僕の名刺を目にした途端、険しかった顔を更に顰めた。 しまった。これは逆効果だったかもしれない。自分の行動の浅はかさに奥歯を噛み締める。 「何でお前みたいな才能もない凡人が、っ、なんで、」 僕自身がヴァイオリンの道を挫折した平凡な人間だったとしても……いや、平凡だからこそ僕が非凡な人達と共にいる事実は彼にとって許し難い事なんだろう。 それほどまでに彼の中で僕という存在は格下で絶対的な敗者に映っているんだ。 誰にも気づかれないようぎゅっと拳を握りしめた。 言い返す言葉なんて持っていない。彼の言葉も怒りも正しい。 だからこそ凡人の僕なんかのせいでこの場を荒らすことはしてはいけないんだ。ここはオリヴァーが気に入ってくれた数少ない心休まる場所なんだから。 喉の奥からせり上ってきて今にも爆ぜそうになっている物には、気付かないふりをした。 「僕なんかが……すみません。」 何とかその言葉だけ絞り出して、僕は小さく頭を下げた。そうして無理やり笑顔を作る。 「彼は明日早いので、僕達はこれで失礼しますね。」 あえて英語でそう伝えれば、目の前の彼は舌打ちしつつもそれ以上は何も言わず、手近な椅子を雑に引き僕たちに背を向けて腰を下ろした。 彼にとってもオリヴァーは仕事相手、この場でこれ以上騒ぎ立てるのは得策ではないと判断してくれたのだろう。 「おい、お前達何を話していたんだ?」 「何でもないです。ただちょっと大学の思い出話をしていただけですよ。」 作り笑いを浮かべたまま帰りましょうと促せば、オリヴァーはじとっ、と僕を睨みつけふん、と不機嫌に鼻を鳴らした。 「後で聞かせろ。」 そこはさらりと流して欲しいところなのだけれど。 それでもこれ以上ここで騒ぎは起こしたくないのか、オリヴァーは自らカウンターに放置していた伝票を手に取り隅で食器を片付けつつ静観してくれていたオーナーへ声をかける。 「おいオーナー、チェックだ。」 一瞬その視線が僕へと向けられたが、何も言わずオーナーは伝票を受け取った。 「……言っとくが、うちはカード使えないぞ。」 「はぁ!?それは困る。なぁシー、」 「はいはい、経費で落としますから大丈夫ですよ。」 オリヴァーの気が他へ逸れた事に内心安堵しながら、僕は二人分の会計を済ませる。 「むう、次までにカード使えるようにしておけ。」 「もう、我儘言わないでください。次も僕が払いますから大丈夫ですよ。」 子供のように口を尖らせるオリヴァーを宥めながら、僕はオーナーに頭を下げた。 「色々とお騒がせしました。また来ます。」 「……ああ。」 財布をしまうふりをしてチラリと背後に座る存在を盗み見る。 肘をつき、僕達のことを見ようともしないその後ろ姿を横目に、オリヴァーにキャップをしっかりと被り直させた。 「ほらほら、帰りましょう。」 もやもやと消化不良な感情を振り払うようにその背を押す。 早く帰って、早く忘れよう。 誰に何を言われたって僕は大丈夫だから。言い聞かせながら早足で店を出ようとしたのに、 「ああ、……またそうやって取り入ったのかよ。」 ポツリと聞こえてきた声に思わずビクリと足を止めてしまった。 ざわり、嫌な感覚が身体を震わせる。 「シー、どうした?」 「あ、いえ、何でも…」 何でもないと言いながらも、僕の身体は背後をふりかえってしまった。一見友好的に口元に笑みを浮かべてはいるけれど、蔑むような冷たい視線が僕を射抜く。 この人、一体どこまで知って…… 「おいシー、今何を言われた?」 「いえ、あの、……ただ挨拶してもらっただけです。」 オリヴァーにだけ分からないように、わざと日本語で投げつけられた言葉。 僕はちゃんと笑えていただろうか。 ぞわりと地から這い上がってくる記憶と、恐怖。 オリヴァーに気づかれないように僕はぎゅっと軋む胸を押さえた。 なんで、この人にここまでされないといけないんだ。僕は諦めたのに、僕だって傷ついたのに。 それでも、笑ってこの人の言葉を受けなきゃいけないなんて。 ……僕のした事はそんなにも許されない事だったのか。 「ヴァイオリンは下手くそなくせに、昔も今も身体と媚びを売るのは上手いんだな。」 片手を上げ、別れの挨拶に見せかけて、言葉の剣が僕を切りつけてくる。 オリヴァーを心配させないように笑わなきゃ。 それから、誤解ですってちゃんと言わなきゃ。 わかっているのに、言葉が出てこない。 何も言えず、視線から逃げるように俯きかけたその時、 ダンッッ!! 突然鈍い音が隣から聞こえてきた。 「え、」 驚きに瞬いた僕の瞳に飛び込んできたのは、手近なテーブルに思いっきり拳を叩きつけるオリヴァーの姿。 「オリ、」 「……今の言葉はわかったぞ。」 ぎ、と激しい怒りを宿したオーシャンブルーが男へと向けられる。 ぞくりと、一瞬にして恐怖に身体が凍った。目の前の男も、静かな怒りにビクリと肩をすくませる。 「コビヲウル……それの何が悪い。」 それは、今まで聞いた事のない、低く冷酷な声だった。

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