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第32話 意味のない音
店から外へと出れば、太陽はすっかりコンクリートの下へと姿を隠し、辺りは濃紺の空に染め上げられていた。
いまだ止まらない嗚咽に涙。オリヴァーは黙って僕の頭を押さえるように撫ぜながら人混みをすり抜けていく。
人々が家への帰路を急ぐ中、僕はオリヴァーの肩口に顔を埋めたまま、引きずられるように駅前のコインパーキングへと連れられ、停めていた車の運転席に押し込まれた。
その場に仁王立ちしてむすっと不機嫌に眉間に皺を寄せたオーシャンブルーが、サングラス越しに僕を見下ろす。
「まったく、泣くほど辛かったのなら言えばよかったんだ。」
はぁ、と長く吐き出されたため息。でもそれはいまだ涙を止められない僕に対する不満や怒りではなく、どうやら心配をしてくれているようだった。
「やはりあの男今からでも…」
「っ、だめっ!」
このままでは本当に一人で店に戻ると言いかねない。僕はうまく出てこない言葉の代わりに、咄嗟に彼の腕を掴んだ。
「っ、違います。そうじゃなくて、っ、う、れしかった、から…」
「はぁ?シーはマゾヒストなのか?」
「……なんで、そんな話になるんですか。」
見当違いな言葉に、溢れ続けていた感情はようやく少しづつ凪いでくる。
掴んでしまっていた腕を離して、僕はずれた眼鏡をかけ直すふりをして俯いた。
「あの、……媚びを売るのは悪くないって。怒ってくださってありがとうございました。」
恥ずかしさと罪悪感でオリヴァーの顔を見る事が出来なかった。
何も言い返せなかった僕に代わって怒ってくれたのに。知られたくないと、言いたくないとはぐらかしていた僕を、それでも悪くないと信じてくれた。それなのに僕はまだ彼になにも伝えられていない。
「べつに、オレは事実しか言ってないからな。過去がなんだろうと周りがどう思ってようと、シーはシーだろ。」
俯く僕の頭に、ぽん、と優しく手が添えられた。それだけで、また涙が溢れてきそうになる。
僕はぐっと拳を握りしめ、オリヴァーを見上げる。
「つまらない話、なんですが……聞いてもらえますか?」
店での会話、オリヴァーがどこまで理解していたのかはわからないけれど、わずかでも知られて巻き込んでしまったのだからもう何も話さないわけにはいかない。
情けなくて、弱い、惨めな僕の話を。
オリヴァーはくしゃりと僕の髪をひと撫ぜしてから、何も言わず助手席へと回り込んでドアを開け、そのままどっかりと座席に腰を下ろした。サングラスとキャップを外してダッシュボードに投げおいてから深くシートに腰かける。
まるで彼と映画を見た時のように、隣で僕の言葉に耳を傾けてくれるつもりらしかった。
僕もシートに身体を預けて、ふぅ、と長い息を吐く。
「たいした話じゃないんですよ。平凡な、きっとどこにでもあるようなつまらない話なんです。」
そう、小比類巻彗 という男の人生は本当に平凡でありきたりなものだった。
両親がアマチュアオーケストラでヴァイオリンとヴィオラをやっていた影響で、僕自身も小さい頃から音楽が大好きだった。 分数サイズが持てるようになってからヴァイオリンをはじめ、ずっとずっと弾いてきて、将来はプロになれればなんて淡い夢を抱いて音大まで来たのだけれど。
音大という大海で、僕は自分の力量を思い知らされた。好きだけではどうにもならない現実を突きつけられ、完全に壁にぶち当たった。
「自分しか見えてなかったんだって思ったんです。だから、教授の雑用を進んで引き受けながら他の音を聞いて、時には選ばれてもいないオーケストラのお手伝いに入って勉強をさせてもらっていました。」
より良い音を。
僕がお手伝いすることで周りに少しでも余裕が出ていい音が出るのなら。その音を聴いて、僕自身の音に生かせれば。そう思っていつしか僕はやれる事は率先してやらせてもらうようになっていた。
……けれどそれは、全ての人に喜ばれることではなかった。
「教授達の音やオケでの音の作り方を勉強していくうちに、学内オーケストラの選考にも少しづつ通るようになっていったんです。……でも、そのうちに後ろ指をさされるようになりました。」
「コビヲウル、か。」
ポツリともれた声に、僕は頷いた。
気まずくて顔は見れなかったけれど、少し沈んだその声に僕の心臓はチクリと痛む。
「Teacher's petでしたっけ。あなたの国で言うところのそういう陰口をたくさん言われました。」
「ふん、どこの国にもそういう奴はいるんだな。大した実力もないくせに。」
吐き捨てられたその言葉には妙に実感が籠っていて、おそらくは彼も同じような事を経験しているのだろうと思った。
もっとも、彼の場合はそんな声を実力でねじ伏せてきたのだろうけど。
「……私には、周りの声を払拭できるような実力がなかったから。陰口、噂はどんどん大きくなっていって、……その、教授に…身体を売っていると……そんな話まで出るようになってしまって。」
オリヴァーが、深く腰かけていたシートから勢いよく身を起こしたのが気配でわかった。その視線が、膝上でぎゅっと握りしめていた僕の拳に向けられていた事も。
けれど、僕はやっぱり彼の顔を見ることが出来なかった。
「……ある日、ピアノ科の教授に呼ばれたんです。君の話はよく聞いてるって、よかったら今度のコンクールの手伝いをしてくれないかって。」
「……シー、お前、」
驚愕に震える声に、僕はやっぱり顔を見れないまま力無く笑うしかなかった。
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