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第34話

どこにでもある、平凡で、面白みのない話。 小比類巻彗(こひるいまきすい)という人間は、世の大多数の人間が経験するように、実力が伴わず夢を諦めた。ただそれだけの話だ。 「下らない昔話に付き合わせてしまってすみません。……色々あったことはあったんですけど、結局僕が駄目な人間だっただけなんですよ。」 苦笑いとともに小さく頭を下げれば、オリヴァーは苦しそうに顔を歪める。 そんな顔をさせたかったわけじゃない。むしろ、僕は彼に軽蔑されてもおかしくないのに。 「ぼ…私は、心配も同情もしてもらえるような人間じゃないんですよ。ヴァイオリンを諦めたくせに、あなたの音を聴いて、悔しいって、羨ましいって思ってしまった。私にはどうやってもあんな音は出せないって。」 ヴァイオリンという単語がオリヴァーの口から出るたびに、僕は多分不愉快な態度をとってしまっていたと思う。それを優しいこの人は心配してくれていたけれど、態度の理由はなんてことはない、ただの妬みだ。 弾きたかった。でも自分には弾けない。誰しもが聴かずにはいられない、あんな音は出せないって。 「ごめんなさい。音楽を諦めたくせにこんな事を考えるなんて。成功するほど努力を重ねてきたあなたに失礼な感情でし…っ、」 いきなり強い力で腕を引かれ、僕の身体は助手席へと引き込まれオリヴァーへと倒れ込む。 狭い車内、オリヴァーの腕が僕の頭と腰に回され強く抱き寄せられた。 「お、リヴァ…」 「、」 彼の胸を押し抵抗しようとしたのだけれど、苦しそうな吐息が耳元で聞こえて、僕は強く抱き締めてくる手を拒めなくなってしまった。 おずおずとその顔を覗きこめば、オリヴァーの右手が僕の眼鏡を引き抜いて、ダッシュボードへと置いた。 眉間に皺を寄せ今にも泣きそうに歪められたオーシャンブルーの瞳が僕を見つめる。 「あの、」 その視線の意味を問う前に、僕の後頭部に回された手が力強く僕を抱き寄せ、僕はオリヴァーの肩口に顔を埋めた。 「……かけてやれる言葉が見つからん。」 オリヴァーらしくない弱々しい声。けれど、僕に回された手は強く強く、苦しいくらいに抱き締めてくる。見つからない言葉の代わりに彼の想いを伝えてくる。 「何も言ってやれない。……だが、聞いてやる。」 「え?」 「努力が足りなかったとか、そんな模範解答はいらん。腹の底に溜め込んでいるものをちゃんと吐き出せ。」 聞いてやる。 再び僕の耳元に落とされた言葉に、じわりとまぶたの奥が熱くなる。 誰も、そんな事言ってくれなかった。みんな、わかってくれなかったのに。それなのに、どうしてこの人は。 「っ、」 さきほど泣きつくしておさまったはずの涙が、また瞳からこぼれ落ちる。 見られたくなくて、僕はオリヴァーの首に腕を回し彼の肩口に自ら深く顔を埋めた。そんな僕の背を、オリヴァーの手が優しく撫ぜる。 この人にぶつけていいはずないのに。そろそろと壊れ物でも扱うかのように優しく背に触れてくる手に、僕の中で何かがふつりと切れる。 「っ、ぼ、くだって、ずっと、ずっと努力してきたのに、誰も聞いてくれなくて、っ、でも、音楽が好きで、」 「ああ、」 「っ、ぼくは、どうすればよかったんですか!なん、で、なんで、誰もわかってくれなかったんですか、」 「ああ。」 「ぼ、くだって、音楽の神様に愛されたかったっ、あなたみたいに弾きたかった!」 堰を切ったように溢れる涙と言葉。 ずっとずっと押し殺してきたはずのものが零れていく。 努力がたりなかったせいだ。僕程度の熱情と力量では人を惹きつける音なんて出せないんだって。夢をつかみ成功した人達は僕以上の努力を積み重ねた人達なんだって。ずっと自分に言い聞かせてきたのに。 それが真実で正解なんだとわかっているのに。 神様に愛され、才能を与えられた人はいるんじゃないか。はじめから持っている人達には、どんなに努力しても追いつけないんじゃないか。頑張る意味なんてなかったんじゃないか。そんな思いがずっと消えなかった。 悔しい。僕だって、僕だって、こんなにも音楽が好きなのに。 神様は酷い。僕には何一つ与えてくれなかった。 「……そうだな。」 支離滅裂な僕の叫びをオリヴァーは時折相槌をうちながらずっと聞いていてくれた。 オリヴァーにしてみれば、きっと理不尽で不快なものだったはずだ。妬み嫉みと愚痴しかない言葉を、それでも彼は反論ひとつせず聞いてくれた。 今日は本当に泣いてばかりだ。それも全てこの人が関わる事ばかり。 どうしてだろう。知り合ったばかり、国籍も違えば身分も立場も違う。あげくに七つも年下。 それなのにオリヴァー・グリーンフィールドという人は、長年僕がひっそりと抱えていたものをあっという間に暴き出して、僕が何より欲しかった言葉をくれる。 粗野で傲慢で不器用な優しさの前では、僕は自分を偽ることができなくなってしまう。 昔の事だ。もう大丈夫だ。そう言いたかったのに、背中を撫ぜるその手があまりに温かくて、僕は結局彼に縋って涙と共に重く醜く溜め込んでいたものを全て吐き出してしまった。

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